信長包囲網には将軍・足利義昭が関係していた?信長包囲網には第一次~第三次まであるって本当?! その1

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信長包囲網には将軍・足利義昭が関係していた?信長包囲網には第一次~第三次まであるって本当?! その1

 

「麒麟がくる」第32回では、織田軍が摂津での戦いで一向宗徒や三好の残党勢力に苦戦し、さらに背後から朝倉・浅井の軍勢が迫り、再び四面楚歌に陥った状況が描かれていたね。
今回は一向宗徒、三好の残党、朝倉・浅井軍勢など信長包囲網についてまとめてみよう。

 

足軽レモン
足軽レモン
織田信長様は本当に四面楚歌でしたわ。

 

【信長包囲網は第一次から第三次まである】

 

天下布武を目指していた織田信長にとって大きな障害となったのが「信長包囲網」だよ。

この信長包囲網は信長の反対勢力であり、室町時代末期に反・織田信長の軍勢が結成した連合のことなんだ。
そしてこの信長包囲網には第一次から第三次まであるんだよ。

 

将軍レモン
将軍レモン
信長様、めっちゃ周り敵だらけになるんよね。

 

【なぜ信長包囲網が構築されたの?その背景には将軍・足利義昭が関係している?】

 

1568年9月に信長に奉じられて上洛した足利義昭は、10月に第15代室町幕府将軍に就任。

1565年に永禄の変で、第13代将軍・足利義輝を殺害して、第14代将軍・足利義栄を擁立していた三好三人衆は、義昭の後見人であった信長によって京から追い出されてしまうんだ。

1569年には、信長が美濃に帰国している隙を狙って、三好三人衆や斎藤龍興が、仮御所の本圀寺にいた義昭を襲撃。
将軍が殺されるという悲劇が起こる危機ではあったものの、明智光秀らが奮闘したことによって義昭は生き延び、窮地を脱することができたんだよ。

この頃、義昭は3歳年上の信長のことを「室町殿御父」と呼んでおり、両者の関係はとても良好だったの。
義昭にとって、信長は三好三人衆の脅威から身を守るためにも欠かせない存在だったんだよ。
信長にとっても、将軍である義昭の権威は利用価値があって、義昭のために二条城を建設するなど尽力していたんだ。

 

レモン姫
レモン姫
ここまでは関係も良好ですわ♪

 

1570年には、信長の上洛の命に背いたことから対立関係になった朝倉義景を討伐する戦いがスタート。

しかしこの際に、信長を裏切った浅井長政、三好三人衆、三好三人衆の1人である三好長逸と通じていた荒木村重、石山本願寺などが第一次信長包囲網を結成して挙兵してしまうんだ。
信長は窮地に陥るものの、足利義昭に調停を依頼して、和睦が成立したことで戦いは収束を迎えるんだよ。
この頃までは信長と義昭の関係は良好だったのに、ここからどんどんと悪化してしまうの。

 

足利義昭は幕府の再興を目指していたんだけど、信長は天下布武を掲げていて、両者の意向はたびたび食い違うように…。
意見が分かれるごとに、両者の関係性は徐々に悪化してしまうの…。

 

忍レモン
忍レモン
雲行きが怪しくなってきましたな〜!

 

 

【1572年、信長と義昭は完全に決裂】

 

信長は1569年1月に将軍権力を制限する「殿中御掟」を出して、義昭に承認させるんだ。

この殿中御掟は幕府法などの先例にのっとったもので、信長を家臣とみなしていた義昭にとっては遺憾なものだったの。

徐々に不満を募らせた義昭は1571年頃から、各地にいた有名大名に御内書を出して、信長の勢力を弱めるために共闘を促すようになっていったんだ。
この時点では両者は対立していたわけではないんだけど、完全に決裂したのは1572年のことだと言われているよ。

 

1572年、信長は義昭に対して「17条の意見書」を送付したんだ。
これは、義昭の行動や生活態度を批判したものだったの。
この意見書に対して、ついに義昭は激怒。

ちょうど上洛を開始していた武田信玄に呼応する形で挙兵することになったんだ。
これを「第二次信長包囲網」と呼んでいるよ。

しかし戦いに敗れてしまった義昭は京都を追放されてしまうの。
追放された義昭だったけれど、将軍であることは変わりなく、中国地方の大名であった毛利輝元を頼ることに。

備前地方を拠点に活動をスタートさせて、信長包囲網を再び構築したんだよ。
これを「第三次信長包囲網」と呼んでいるんだ。

次回は第一次から第三次までそれぞれの信長包囲網について詳しく解説してみよう。

 

足軽レモン
足軽レモン
信長様、いっつも強気なんだよね〜
将軍レモン
将軍レモン
周りの戦国武将の反感買いまくり武将ですわ。