挟撃で大ピンチ!織田信長にとって最大の危機と言われる「金ヶ崎の退き口」とは? その1
2020年11月13日金ヶ崎の退き口で殿軍として活躍した池田勝正ってどんな人物だった?
2020年11月15日
前回は、金ヶ崎の退き口で浅井長政の裏切りをまとめたよね。
今回は、金ヶ崎の退き口で浅井氏と朝倉氏に挟撃された信長がどうやって京都へ逃げ帰ってきたのかについてまとめてみよう。
目次
【近江を南下するために朽木超えをした】
若狭を抜けた信長は、近江を南下するためにどうするか考えたんだ。
近江を支配する浅井氏を敵に回してしまったため、近江を通って京へ戻ることはできなくなったの。
そこで信長は浅井氏の支配が及んでいない朽木を撤退路として選んだんだよ。
信長に同行していた松永久秀の説得によって、朽木の豪族・朽木元綱は信長の撤退に協力することに。
実は、元綱はもともと信長を殺すつもりだったものの、久秀の必死の説得によって意見を変えたと言われているんだよ。
そして4月28日には京へ到着するんだ。
京へ戻った時、信長の供をしていたのはわずか数十騎の兵だけだったと言われていて、いかに厳しい道中だったかが良く分かるよね。
【殿を務めた光秀、秀吉】
明智光秀や摂津守護・池田勝正が殿を務めたとされていて、最近の調査では勝正が殿軍を率いて朝倉軍の追撃を撃破したということが分かっているよ。
殿軍というのは、後退する際の最後尾の部隊のことで、敵の追撃を阻止して本体を守る非常に危険な任務だったんだ。
この殿は、武芸や人格に優れた武将が務める大役であったと言われているよ。
通説によると、この時、秀吉は自ら殿軍を名乗り出て、敵中で孤立していた信長を逃がし、命がけで脱したと言われているんだ。
ただ、戦場には秀吉よりも地位が高い明智光秀や池田勝正がいたから、殿軍の一武将として功を上げたということになっているよ。
秀吉はこの功績が認められて手柄の有無や大小に応じた賞「論功行賞」でその貢献を称えられているの。
その働きは信長から黄金数十枚を与えられるほどだったんだよ。
実はこの殿軍に徳川家康もいたのでは?という説もあるんだ。
実際、「寛永諸家系図伝」や「徳川実紀」には徳川家康が殿軍に加わったと記載されているの。
ただ家康は信長にとって同盟相手。
本能寺の変の数日前に家康を丁重にもてなすよう光秀に命じていて、このような関係性から家康が殿軍にいたというのは考えにくいとも言われているんだ。
【京へ帰還後、本拠地の岐阜へ戻る】
信長は京に到着した翌日、窮地を脱してきた様子は一切見せず、平然と振る舞っていたと言われているの。
信長が京に戻ってから数日後、金ヶ崎城に残っていた秀吉や明智光秀ら殿部隊も無事に京へ生還するんだ。
織田軍は5月9日には本拠地の岐阜城へ帰還するため京を出発。
岐阜への道中に、信長が杉谷善住坊に狙撃される事件が起きるものの、かすり傷を負ったのみで無事に岐阜へ帰還できたんだよ。
そして、信長は軍勢を立て直して、浅井長政討伐の準備にとりかかることになるんだ。
【金ヶ崎の退き口後に姉川の戦いが起こる】
信長は金ヶ崎の退き口で、窮地を脱した後、軍勢を立て直して姉川で朝倉・浅井連合軍を撃破するよ。
これがかの有名な「姉川の戦い」だよね。
天正元年(1573年)には浅井家、朝倉家の両家を滅亡させるよ。
その後、天下統一に向けて信長軍は諸大名を次々破っていくことに。
金ヶ崎で見事に殿をつとめた秀吉と光秀は、その功績によって織田家の中でも重用されるようになって、城持ち大名にまで出世していくことになるんだ。
【金ヶ崎城はどうなった?】
激戦の舞台となった金ヶ崎城は朝倉氏の滅亡後に廃城してしまうんだ。
現在は、主郭にある月見御殿跡をはじめとして、木戸跡や堀切などが残っているよ。
金ヶ崎城から手筒山城へつながる道は、綺麗に整備されていてウォーキングコースとしても人気を集めているの。
当時の戦いを偲びながら散策するのもよいね。