信長・家康軍VS朝倉・浅井軍の「姉川の戦い」とはどんな戦いだったの?
2020年11月11日挟撃で大ピンチ!織田信長にとって最大の危機と言われる「金ヶ崎の退き口」とは? その2
2020年11月13日
「麒麟がくる」第31回では、越前へ向けて出兵した信長が、朝倉義景がいる一乗谷まであと一歩に迫った金ヶ崎で、裏切り者・浅井長政に迫られたね。
ここでは信長にとって、最大の危機であったとも言われている「金ヶ崎の退き口」についてまとめてみよう。
目次
【金ヶ崎の退き口とは?】
金ヶ崎の退き口とは金ヶ崎の戦い、金ヶ崎崩れとも言われていて、1570年に起きた織田信長の撤退戦だよ。
信長のと朝倉義景は長い間戦いを繰り広げていたけど、金ヶ崎の退き口は、信長、義景、そして浅井長政の間に行った戦闘の1つとして有名なんだ。
永禄13年(1570年)4月、信長は若狭国の守護である武田家を討伐するために3万の大群を率いて京を出陣したの。
実はこの出陣はみせかけで本来の目的な朝倉家討伐。
4月25日に織田軍は若狭の国境を越えて、越前の朝倉領へ進軍を開始したんだ。
自分に従わない朝倉家に対して信長は、武田攻めを装って朝倉氏を滅ぼそうと計画していたんだ。
越前に入った織田分は、海運の要衝である敦賀港がある敦賀へ侵攻して、港を押さえるために金ヶ崎城の攻略を開始したよ。
【信長が攻略した金ヶ崎城とは?】
金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た比高さ86mの丘の上に築かれた城で、三方を海に囲まれた要害だったんだ。
尾根続きの手筒山には支城の天筒山城を築き、守りを固めていたそう。
しかし金ヶ崎城主であった朝倉景恒と朝倉義景の関係はこの当時悪化していたため、援軍が遅れ手筒山城が囲まれたその日のうちに金ヶ崎城は織田軍によって落城されてしまうんだ。
天筒山城からの猛攻に耐えかねて金ヶ崎城城主の朝倉景恒は翌日には織田軍に降伏したんだ。
さらに2城の落城によって、近江と越前をつなぐ街道を押さえていた疋檀城も開城したんだよ。
【浅井長政の裏切りの発覚】
天筒山城、金ヶ崎城、疋檀城の3城を攻略し、敦賀一帯を制圧した信長の勢いは止まらなかったんだ。
そのまま意気揚々と朝倉氏の本拠である一乗谷に向かうために兵を進めたよ。
しかしここで想いもよらぬことが起こったんだ。
現在の敦賀市と南越前市を隔てる木ノ芽峠にさしかかったところで、義弟・朝倉長政の裏切りが発覚したの。
「信長公記」によると、信長は裏切り情報を聞いた際にはじめはこの話を信じなかったそう。
しかし次々に飛び込んでくる知らせに、それが事実だと認め、朝倉氏と浅井氏の狭撃を避けるために撤退を決意したんだ。
信長は木下秀吉(豊臣秀吉)と明智光秀らに殿を命て、金ヶ崎城を守らせ、自らは若狭方面から京を目指したよ。
【なぜ長政は信長を裏切ったの?】
信長の妹・お市は北近江の浅井長政に嫁いでいるため、浅井家と織田家は同盟関係にあったんだ。
その一方で、浅井氏が大名として独立する際に朝倉氏の助力を受けていたため、家中では親織田派と親朝倉派で分かれていたの。
浅井長政は信長と同盟を組む際に「朝倉攻めを行う際には、事前に長政に相談すること」とへの誓いをしていたものの、信長はこの約束を破って朝倉氏に攻撃をしかけたの。
浅井長政は付き合いの長かった朝倉氏との関係を重視して、妻の兄である信長を裏切るという苦渋の決断をしたと言われているよ。
また、朝倉攻めが始まったことによって、家中の親朝倉派を抑えきれなくなったともいわれていて、実際の裏切り理由ははっきりとは分かっていないんだ。
【お市の方が信長に裏切りの知らせをした?】
織田軍が長政の裏切りに気づいたのは、織田家の外交を担当していた松永久秀が浅井方の不審な動きに気付いたからと言われているの。
そのほかに俗説としては、長政の元へ嫁いだ信長の妹・お市の方が小豆袋の両端を結んで信長に送り、夫の裏切りによる挟撃を信長に知らせたというエピソードもあるんだよ。
次回は金ヶ崎の退き口で、どうやって信長が京都へ逃げていったのか、 金ヶ崎の退き口後どうなったのか?についてまとめてみよう。