信長が義昭のために建てた二条城は、現存する二条城とは違うって本当?!
2020年10月31日二条晴良をご紹介!エリート中のエリートであった関白・二条晴良とは?
2020年11月11日
「麒麟がくる」第29回では、義昭と信長が上洛を果たし、対抗勢力であった三好一派を畿内を追い出したことによって、三好が推す足利義栄の将軍擁立に助力した近衛前久の立場が危うくなってしまったよね。
ここでは、足利義栄の将軍擁立に助力していた、関白・近衛前久についてまとめてみよう。
目次
【近衛前久とはどんな人物だった?】
近衛前久は類まれなる行動力で、公家でありながら自ら政治に介入した代わり種の若き関白だったんだ。
足利義昭が将軍に就任してしまうと、公家勢力の中で対立関係であった二条晴良たちによって朝廷を追われて関白職から失脚することに。
近衛前久は五摂家筆頭という名門貴族に生まれたにも関わらず、その半生は流浪に費やしていたんだ。
また、近衛前久は当代屈指の文化人としても知られており、その文化の地方波及にも貢献しているんだよ。
【フットワークの軽さ&度胸の良さが魅力】
近衛前久は藤原北家の流れを汲んでいる近衛家の長男として誕生。
18歳で左大臣、関白、藤原氏のリーダーである藤氏長者になり、19歳で従一位になる超スピーディーな出世を果たすんだ。
関白という臣下のトップでありながら、近衛前久は自ら関東や北陸まで行くフットワークの軽さがあったの。
また足利将軍から名前にもらった「晴」という字をあっさり捨てる度胸も持ち合わせているんだ。
名門出身の貴族でありながら、切り替えの早さは近衛前久の長所でもあったんだよ。
【上杉謙信と意気投合した近衛前久】
永禄2年(1559年)のちの上杉謙信である長尾景虎が上洛するんだ。
この時、近衛前久は足利義輝は景虎と対面して、その後、宴が催されたんだよ。
この酒の席で3人は意気投合して、朝まで飲み明かしたそう。
仲良くなった近衛前久と上杉謙信は、たびたび行動を共にすることになるんだ。
京で会うだけではなく、越後まで下行したこともあるんだって。
これは関白の職についている者の行動としては異例なことなんだよ。
【織田信長と近衛前久の関係とは?】
永禄の変後、本願寺に身を寄せていた近衛前久は、義昭によって関白を解任されるよ。
その後、信長包囲網の動きが出てくると、近衛前久は三好三人衆の依頼を受けてこれに参加することに。
ただ、近衛前久自身は、信長に敵意があったわけではないんだ。
将軍・與曽井亜紀と関白・二条晴良の排除が目的だったのでは?と言われているよ。
そのため、天正元年(1573年)に義昭が信長によって京を追放され、晴良もまた信長から疎んじられるようにあると、近衛前久は信長包囲網から離脱。
それ以後、信長と近衛前久は親交を深めたと言われているよ。
近衛前久は行動的で儀礼にもあまりこだわらない性格で、公家としてはかなり変わったメンタリティーを持っていたんだ。
そんな近衛前久の性格を信長はたいそう気に入ったと言われているよ。
さらに2人には、鷹狩り、乗馬などの共通の趣味があって、しばしば互いの成果を自慢し合っていたとも言われているの。
【本能寺の変で信長が死去後、近衛前久の運命も変わる】
本能寺の変で、親友・朋友であった信長を失ってしまった近衛前久は、髪を落として僧になってしまうんだ。
豊臣秀吉や織田信孝らからはあらぬ疑いをかけられ、京都で四面楚歌の状態になってしまうと、自分を守るために、近衛前久は徳川家康に近づいて助けを求めることになるんだよ。
1年後、家康の斡旋によって秀吉からの誤解は解け京都に戻るものの、小牧・長久手の戦いで秀吉と家康の両者で激突したため、近衛前久は奈良に身を寄せて和議が成立することを見届けたそう。