石切丸 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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2020年10月31日
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第29回では、将軍の御座所襲撃に怒りをあらわにした織田信長が、京都に将軍を守る城が必要だと独断で「二条城」の建設をはじめてしまったね。
二条城といえば、京都にあるお城として有名だけど、実は今ある二条城は織田信長が築城した二条城とは違い、徳川家康のものなんだよ。
ここでは、織田信長が築城した二条城についてまとめてみよう。
目次
【足利義昭のために織田信長が建てた二条城とは?】
二条城といえば、現在でも京都の一大観光名所となっているよね。
けれど、現在目にすることができる二条城は織田信長が建てたものとは違うの。
現在見ることができる二条城は徳川家康によって江戸時代に入ってから建てられたもので、信長が建てた二条城は現在とは別の場所に建てられていたんだよ。
【旧二条城の場所とは?】
織田信長が建てた旧二条城の跡地には石碑が立っているの。
その場所は、市営地下鉄烏丸線、丸太町駅から近い場所にあるよ。
現在、その場所には学校の校舎が建っているんだ。
旧二条城の敷地は、現在の京都御苑の敷地も一部含んでいて、京都御苑の中で旧二条城の復元石垣を見ることができるよ。
もともとこの土地は室町幕府の有力大名であった斯波氏の館跡で、館は13代将軍・義輝に譲られていたの。
二条大路よりも北側位置しているけれど、当時の史料によると「二条武衛陣(斯波氏のこと)の御構」という記述が残っているんだよ。
ちなみに剣豪将軍として有名な義輝は、三好三人衆らによって襲われて討ち死ぬけれど、その舞台はこの斯波氏の館だったんだ。
足利義昭は義輝の実弟だよね。
信長は親族のゆかりの地に、義昭のために新たな御所を作ったんだよ。
この旧二条城では、当時ではまだ珍しかった石垣が用いられていて、実際に発掘もされているんだ。
信長は貧乏将軍であった義昭のために防御がしっかりとした立派な城を贈呈したんだよ。
けれど、義昭はその感謝も忘れて、信長に対して反抗的な態度をとるようになるんだ。
さらに合戦まで発展した後、義昭は京都から追放されてしまうの。
怒った信長は、二条城を徹底的に破却して、建物の一部は安土城に転用されたと言われているんだ。
【二条城には天守らしい高層建造物が建っていた?!】
第15代将軍・義昭のために信長が築いた旧二条城跡からは、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる城跡が発掘調査でみつかっているんだ。
発見された遺構からは、室町通りという幕府が最も重要したメインストリートを横切る異例の形で築かれていたということが分かっているの。
発掘調査によると城跡は東西方向で幅6m分、深さ最大3m分を確認していて、底には泥土状の堆積があったため、水が張られていたと見られているんだ。
さらに城跡が南北路の室町通に沿って南方向に折れることなく、通りを突き抜けて西側に延びていたことから、主要建物のあった内郭の一部が外へ突き出す形で、、高層建物があった可能性が示唆されているんだ。
天守らしい高層建造物が建っていたのでは?とも言われているんだよ。
【信長はもう1つの二条城を建造】
実は信長は、義昭の御所であった旧二条城が破却された後、もう1つの二条城を建造したんだ。
二条大路の南側に二条家があったんだけど、信長はその庭園をとても気に入ったの。
そこで宿所にしようと思いつき、邸宅を譲り受けて大改修を命じたんだ。
けれど、この屋敷はすぐに正親町天皇の皇子・誠仁親王に譲られることに。
信長はこの当時、格式ある官職である権大納言と右近衛大将に任命されていたから、そのお礼として、プレゼントとしたともいわれているよ。
信長が建てた二条城は、親王の御所となったから、「二条御所」「下御所」とも言われているんだ。