染谷将太さんが演じる麒麟がくる!で活躍の織田信長の生涯とは! 第一回
2020年3月5日織田信長の生涯をサクッと解説! 第三回 〜 武田軍との長篠の戦いと政治家としての側面 〜
2020年3月5日前回は織田信長の幼少期と、信長の本当の性格についてまとめてみたよね♪
実は、私達が思っているような短期な性格ではなく、真面目で我慢強い性格だった信長。
染谷将太さんが演じる麒麟がくる!で活躍の織田信長の生涯とは!
2回目は、桶狭間の戦いと、天下統一までの道のりをまとめてみよう。
目次
【桶狭間の戦い】
織田信長が関わった戦いはいくつもあるけれど、その中でも
・桶狭間の戦い
・長篠の戦い
・本能寺の変
はとても有名だよね。
今回は桶狭間の戦いについてまとめてみよう。
桶狭間の戦いは1560年(信長27歳)に起こった、今川義元との戦いだよ。
今川義元は現在の静岡県である駿河の戦国大名だったんだ。
この桶狭間の戦いは、「日本三大奇襲」の1つにも数えられていて、信長率いる織田軍が今川軍本隊への奇襲を成功させ、勝利したよ。
なんとその時織田軍は5000ほどの規模だったにも関わず、25000もの大軍である今川軍を破ったの。
信長は当時の総大将としては珍しく、自らが前に出るタイプだったんだ。
だからこそ少ない部下を率いて、大軍である今川軍へ攻め込むことができたといわれていて、これが最大の勝因にもなったの。
ただ、信長は自分の能力を過信しない謙虚さを持ち合わせていて、この桶狭間の戦い以降は自分が前には出るものの無謀な勝負はしなかったと言われているよ。
この桶狭間の戦い後、1562年(信長29歳)には、徳川家康と同盟を結んだんだ。
【何度も本拠地を変えた信長】
信長は家督を継いでから、天下に名前を鳴り響かせるまで、頻繁に本拠地を変えているんだ。
この本拠地の移転は他の大名ではあまりなかったことだよ。
武田信玄も、上杉謙信も本拠地自体を移動はさせておらず、戦略に応じて本拠地を変える織田信長はまさに偉大な才能を持った武将だったことがわかるね。
本人に大きな影響を与えたと言われているのが、1563年に清須城から移転した小牧山城(愛知県小牧山城)だよ。
この小牧山城は30歳の信長が築いた最初の城郭であり、最大三段の石垣を備えた城だったんだ。
後に建てられる安土城にも影響を与えたと言われているよ。
ただ、この小牧山城はわずか4年間しか使われなかったため、文書の記録はほとんど残っていなくて謎の部分も多いそう。
さらに1567年(信長34歳)の時には、美濃国へ攻め入り、本拠地を岐阜城へ移したんだ。
当時、美濃は、義父の斎藤道三の代から息子の斎藤義龍を経て、孫の斎藤龍興が当主だったの。
道三時代には関係は友好だったものの、義龍が軍事クーデターを起こして当主になってからは、反織田に切り替わっていたんだ。
そこで、信長は徹底的に調略を駆使して、美濃三人衆を切り崩し、斎藤氏の稲葉山城を陥落したよ。
で紹介しているよ!
【天下統一に向けて行った第一次信長包囲網】
岐阜へ本拠地を移転された信長は、まずは京都への道筋を確保するために策を練ったんだ。
1568年(信長35歳)に足利義昭を支持し15代将軍への就任の手助けをしたよ。
岐阜〜近江〜京都のルートを押さえるために、まずは近江を治めていた浅井長政の元に、絶世の美女と謳われた信長の妹「お市」を嫁がせたんだ。
しかし南近江には信長に対抗する諸勢力がいたため、南近江の国衆や小大名を徐々に撃破しながら、京都への道筋を押さえていったよ。
そして1570年(信長37歳)には、姉川の戦いで浅井氏、朝倉氏(越前)に勝利したんだ。
【第二次信長包囲網】
信長は「魔王」と呼ばれることもあり、人々から恐れられていたの。
この要因の1つが「比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)」だったと言われているよ。
1571年信長38歳の時に、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻め込んだんだ。
この比叡山焼き討ちでは、僧兵・僧侶のみならず女・子供まで数千人が殺されたと言われているんだよ。
しかし、発掘調査では大規模な白骨は発見されておらず、信長の数千人虐殺&大炎上は誇張ではないか?とも言われているの。
ただ、武力と権力を合わせ持っていた有力寺院である延暦寺を焼き討ちしたという事実は間違いないんだ。
こうして、1573年には足利義昭は信長によって京都から追放され、室町幕府は滅亡。
続いて朝倉氏、浅井氏も滅亡され、石山本願寺も信長によって屈服させられたよ。