織田信長の生涯とは!第二回 〜 桶狭間の戦いから室町幕府の滅亡まで! 〜
2020年3月5日織田信長の生涯を簡単に解説!第四回 〜 安土城と明智光秀による本能寺の変 〜
2020年3月5日前回は織田信長の桶狭間の戦いと第一次、第二次信長包囲網までをまとめてみたよ。
いよいよ室町幕府が滅びて、天下統一まであともう少し。
3回目は武田氏との長篠の戦いと信長の政治家としての側面をまとめていこう。
【長篠の戦い】
織田信長が関わった代表的な戦い3つの中の1つ「長篠の戦い」について見てみよう。
長篠の戦いは、1575年に現在の山梨県である甲斐の戦国大名の武田勝頼と信長の戦いだよ。
この戦いでは、信長率いる織田軍が大量の鉄砲(火縄銃)を利用して、勝利したんだ。
当時の武田軍は最強レベルの騎馬軍団とされていたよ。
その最強の武田軍を火縄銃で破ったこの長篠の戦いは歴史的に見てもとても重要なの。
鉄砲の織田徳川連合軍4万に対し、騎馬の武田軍は1.5万と少なかったといわれているよ。
この時、信長が駆使した作戦は「新戦法三段撃ち」というもの。
織田家は当時としては異例の鉄砲3000丁を用意して兵に配布。
当時の火縄銃は1回発砲すると、火薬を詰めなおして縄に火をつけなければならず、一発一発に間合いができてしまっていたんだ。
そのため、実戦で主力に使う大名はほとんどいなかったそう。
そこで信長は、火縄銃を戦いで有効的に使えるように、1000人ずつ3列に布陣して、1列目が射撃したら3列目まで下がって次の発砲の準備をし、次に2列目が射撃するという三段撃ちの戦法を考え出したんだよ。
この新戦法によって、一斉射撃が間断なく行えるようになったの。
さらに信長は射撃兵を馬防柵(敵が通過するのを防ぐ移動可能な柵)で囲んで土塁(敵の侵入を防ぐために築かれた堤防状の土製の壁)を構築して簡易的な野戦築城を行って、騎馬隊の突撃の足を鈍らせたんだ。
この素晴らしい戦術を前に、数々の大名が恐れおののいた武田騎馬隊が銃弾に倒れ完敗。
長篠の戦いによって名家の武田氏の衰退のきっかけとなったんだ。
長篠の戦いに勝利した織田信長は同1575年に清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられたんだよ。
朝廷によって織田信長が天下人に公認されたことを意味するんだ。
信長像が語られる時に「信長自身が天皇になろうとしていた」という説があるんだけど、これはどうも違うみたい。
信長は皇室をないがしろにするどころか、皇室を保護する立場だったんだ。
予算不足で途絶えた伊勢神宮・式年遷宮のために資金出資もしているの。
このようなところを見ても、信長の政治バランスの良さがうかがえるね。
【信長の政治家としても有能だった?】
信長は武将として優れているだけではなく、政治家としても色々な政策を行っていたんだよ。
織田信長が行った代表的な政策は
・楽市楽座の実施
・関所の廃止
の2つ。
楽市楽座とは、特別な権利を持っていた商人たちを排除して、新しい商人たちから税金を取らずに、自由な取引の場を作る政策だよ。
この楽市楽座の実施によって、新しい商人たちがたくさん育ち、経済が活発になったと言われているの。
関所は交通の要所に設置されていた施設のこと。
関所を通る時には、税金を支払わなければならなかったの。税金を払いたくないから、多くの市民はなるべく近くで品物の取引をしていたんだよ。
信長はこの関所を廃止することで、品物の行き来をより活発にしたんだ。
戦国武将という戦のイメージが強い信長だけれど、実はこのように商人たちの生活を考えた政策を実施していたんだよ。
信長が多くの人に愛されていたのは、このように領民のためを思った政策を実施したその人柄もあるんだね。