織田信長の生涯をサクッと解説! 第三回 〜 武田軍との長篠の戦いと政治家としての側面 〜
2020年3月5日独眼竜の異名を持つ伊達政宗 伊達者(伊達男)の小ネタ
2020年4月2日前回は武田氏との長篠の戦いと信長の政治家としての側面をまとめたよ。
今回はついに最終回。
信長が建てた「安土城」と、明智光秀に討ち落される「本能寺の変」についてまとめてみよう。
目次
【安土城を築く】
1576年信長が43歳の時に、琵琶湖のほとりに安土城を築くよ。
この奉公に任ぜられたのは丹羽長秀。
この丹羽長秀は米五郎左というあだ名で織田家にはなくてはならない人物として称された名称なんだ。
信長と長秀は共であり兄弟といわれる間柄であったと言われているよ。
長秀の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめとして、安土城建設のために畿内の大工や職人が数多く招集されたんだ。
安土城建設過程では、蛇石と呼ばれる巨大な石があり引き上げるのが大変だったという記録が残っているの。
この蛇石を山頂へ引っ張り上げるために、豊臣秀吉や滝川一益なども手伝って1万人がかりで行ったそう。
信長は息子の信忠にそれまでの居城であった岐阜城を譲り、岐阜よりも京の都に近く、京都から北陸を繋ぐ街道の要所である琵琶湖の東岸に城を築き、天下統一を見据えていたの。
安土城は安土山の地形を利用して建てられた平山城で、従来のお城の築城にはない様々な特徴があったんだ。
その1つが天守。安土城は日本で初めての天守を持つお城としても知られているよ。
お城といえば、天守があるのが当たり前のイメージだけれど、安土城が始まりなんだ。
天守は城の中核をなす建造物で、これまでは有事の際のみ利用されていたそう。
しかし、信長は天守に住んでいたと言われているよ。
装飾は絢爛豪華で、軒瓦や最上層は金箔で装飾されていたんだ。
下の層の内部は黒漆塗りになっていたみたいだよ。
さらに城郭が石垣で作られたのも、安土城が始まりといわれているんだ。
現在でも、安土城の石垣は残っているよ。
安土城の石垣を積み上げたのは、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる技能集団。
大きい石と、小さい石を組み合わせて積み上げただけなのに、地震大国に耐えられる強度を持っているの。
この穴太衆(あのうしゅう)による城郭技術も、その後の城作りに大きな影響を与えたと言われているよ。
【本能寺の変】
本能寺の変は、織田信長の家臣であった明智光秀が本能寺にて起こした反乱のこと。
明智光秀が信長を裏切った結果、信長を自害に追い込んだと言われているんだ。
けれど、信長の遺体は見つかっておらず、明智光秀の裏切り理由も多くの説があるため、いまだに謎が多い戦と言われているよ。
本能寺の変は日本史上、最も有名な事変でもあるよね。
この「変」というのは、突発的な事件であることから、そう呼ばれているんだ。
信長は毛利輝元の属城であった備中国(岡山)の高松城攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するために上洛。
この日は本能寺に宿泊していたよ。
本能寺にいたとき、諸将に出陣を命じていたため、信長自身は100人ほどの従者しか連れていなかったの。
つまり、明智光秀にとっては絶好のチャンスであったんだ。
古くから、奇襲は「夜討ち朝駆け」が基本であり、敵が油断している夜間や早朝を狙って不意をつくという戦術が理想。
光秀の軍勢が本能寺を包囲したのも午前6時頃といわれているから、典型的な朝駆けだね。
本能寺は石垣や堀を擁する寺院で、それなりの防御力は持っていたものの、100人の信長軍に対して13000軍の光秀の大軍に包囲されては為す術はなかったと言えるよ。
結局、信長はわずかに防戦しただけで、自刃したといわれているんだ。
その後、光秀は近隣の妙覚寺に宿泊していた信長の嫡男信忠も自害に追い込んだよ。
この本能寺の変によって、本能寺は消失してしまうんだ。
しかし、光秀がいくら信長の遺体を探しても、見つからなかったの。
その後、光秀を破った豊臣秀吉が信長の遺体を探索させるものの、やはり見つからなかったんだ。
いまだに信長の遺体はどこにいったのかは謎のままなんだよ。
【織田信長の生涯、まとめ】
1582年に49歳という若さで自害した織田信長。
戦国時代を生き、天下統一目前で死を遂げてしまったけれど、後に信長の夢は部下の豊臣秀吉によって達成されたんだ。
本能寺の変に関してはいまだに謎が多くて、歴史ファンであればその真実を知りたいところ。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
大河ドラマ「麒麟がくる!」で、明智光秀と織田信長の関係性を詳しく知ることができるよ。
ぜひチェックしよう!!