本木雅弘さんが演じる麒麟がくる!でおなじみの美濃の蝮と言われた斎藤道三(斎藤利政)とは!
2020年3月2日織田信長の生涯とは!第二回 〜 桶狭間の戦いから室町幕府の滅亡まで! 〜
2020年3月5日今年の大河「麒麟がくる!」は本能寺の変を起こした明智光秀が主人公だよ。
明智光秀を通して描かれる戦国絵巻なんだけど、その中で重要なポジションとなるのが染谷将太さんが熱演している織田信長。
織田信長の名前を知らない人はいないというくらい歴史上の人物としては有名人だよね。
でも織田信長がどういう人だったか、何をしたのか?どんな生涯を遂げたのかについて実はよく分かっていないという人もいるはず。
今回は、織田信長の生涯について分かりやすく解説していくね。
目次
【織田信長の幼少期】
日本の有名な戦国武将として、真っ先に名前があがるのが「織田信長」だよね。
圧倒的なカリスマ性のある織田信長は現代人にとっても、魅力的な人。
まずは、織田信長の幼少期を分かりやすくまとめてみよう♪
織田信長は1534年に現在の愛知県である尾張の戦国大名である織田信秀の長男として生まれたんだ。
父親は清須三奉行の1人で、元々の気分はそう高い方ではなかったそうで、尾張守護代家に仕えていたよ。
母親は土田政久の娘である土田御前。
織田信長の母親である土田御前に関しては、謎が多くよく分かっていない部分も多いんだって。
1546年、信長が13歳の時に、父の居城である古渡城(名古屋市)で元服し、那古野城主になったんだ。
元服とは、現在でいう成人式のようなもので、この時に「三郎信長」と名乗るようになったよ。
1549年、信長が16歳の時に、濃姫(帰蝶)と結婚し、上総介(当時の官職の1つ)を名乗るようになったんだ。
1551年、信長が18歳の時に、父親である信秀が流行り病にかかり亡くなったことをきっかけに織田家の跡を継ぐよ。
【身内の権力争い】
父親が亡くなった後、織田家を継いだ信長は、尾張の中心だった清須城を事実上占拠したんだ。
しかし、しばらくの間は、尾張一国をまとめることもできないほど、身内間での権力争いに忙殺されていたんだよ。
当時の信長はうつけ者として周囲から軽んじられていたんだ。
父親の葬儀で焼香するときには、抹香を仏前に投げつけたという逸話はとても有名。
そのことが原因で、1553年には信長の教育係の平手政秀が死でもって、たしなめられたと言われているよ。
1556年(信長23歳)には、妻・濃姫(帰蝶)の父である斎藤道三が長良川の戦いで息子の斎藤義龍に討たれた際には、その救援にも向かったんだ。
1557年(信長24歳)には弟の織田信勝(信行)を病気と称して呼び出して、謀殺。
信行は兄信長を以前にも排斥しようとしており、2度目の裏切りがあったため、殺害したといわれているんだ。
【信長は本当に乱暴者だったの?!】
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
これは戦国三大武将を表現した有名な詩だよね。
信長は短気で気性が激しい性格と言われていたため、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と表現されているんだ。
しかし、若いころの織田信長は手の付けられない乱暴者、馬鹿者であったか?というと実はそうでもないの。
当時、上級武家の子息たちは上品な作法を行儀よく勉強しなさいとされていたんだけど、信長はその規範にそぐわなかっただけ。
短気でもなく、実はがまん強い努力家だったといわれているんだよ。
信長がまだ10代だった頃、普通よりも長い槍を作って、新しい戦法を発明したんだ。
これは信長が天才だからできたことだろうと言われていたんだけど、実は信長は寝る時間、食べる時間を惜しんで戦法を研究したと言われているの。
周囲からは馬鹿者といわれても、ずっと我慢し、この長い槍の戦法を完成させたんだよ。
このことからも分かるように、信長は短気でも乱暴者でもなく、とても真面目で研究熱心だったことが分かるよね。