越前の国に小京都を築いた朝倉義景はどんな人物だったの?
2020年8月24日明智光秀のゆかりの地でもある福井県の「一乗谷城」が今アツイ!!国の三重指定を受けた中世唯一最大の城下町跡「一乗谷跡」とは?
2020年8月27日
明智光秀は人気のある戦国武将の1人だけれど、その人気ぶりとは裏腹にその生涯は謎に包まれているんだ。
光秀に関しては、足利義昭を奉じて上洛いた信長に仕えるようになった永禄12年(1569年)から、本能寺の変が起こるまでの13年間しかはっきりと分かっていないの。
それ以前に関する一次史料と呼ばれるものはほとんどないんだよ。
ただ信長につかえる前には、光秀は朝倉氏が支配していた越前だということは分かっているの。
今回は越前地方にある光秀ゆかりの地をまとめてみよう。
目次
【丸岡城のすぐ近くに光秀の旧居跡があるの?】
福井県北部にある酒井市丸岡町には丸岡城があるんだけど、そのすぐ近くには光秀の旧巨跡があると言われているよ。
この丸岡城は江戸時代から歴史を刻む現存12天守の1つで、柴田勝家が甥の勝豊に天正4年(1576年)に築城させた城なんだ。
この丸岡城天守から西へ3キロほどいったところに、称念寺(しょうねんじ)というお寺があるの。
このお寺は、鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗のお寺なんだ。
光秀の母であるお牧の方が称念寺の末寺・西福庵の縁者であったことから、それを頼って光秀は西福庵に居を構えたと言われているんだ。
その門前に寺子屋を開いて、子供たちに学問を教えて生計を立てていたのでは?と言われているよ。
また本寺にあたる称念寺の住職と交流を持って、光秀得意の和歌を詠んで、漢詩も作っていたとされているの。
実際、称念寺の31代住職が記したものの中には、光秀と10年一緒に暮らしたと語られているよ。
光秀が毎日拝んでいたである仏像は今も、称念寺の本堂にあるんだ。
【明智光秀の第2の旧居は、明智神社】
光秀が越前で暮らしていたとされる場所として、福井県福井市にある明智神社があるよ。
明智神社は、はじめの居跡である称念寺から南へ20㎞程度のところにあるお社。
案内看板には明智神社のことを「あけっつぁま(明智様)」と書かれており、この地域の人に愛されていたことが良く分かるよね。
地元に伝わる逸話によると、光秀は称念寺の門前に住んでいた後、朝倉氏につかえることが決まり、住まいも城下町・一乗谷に近い場所に変えるために、明智神社に居住を映したと言われているんだ。
この明智神社にいた時期は、永禄5年(1562年)から永禄9年(1567年)の5年間程度だったと言われているよ。
この明智神社で、娘のガラシャも生まれたとか。
そのため、ガラシャの生誕地でもあるんだよ。
光秀は信長に仕えることになって最終的には越前を離れてしまうけれど、越前の人達はその後も光秀を慕っていたし、光秀もまた越前で暮らした日常や、交流した人々のことをいつまでも大切に思っていたそう。
【光秀を慕い続けている越前の人たち】
光秀が山崎の戦いに敗れて亡くなった後も、明智神社があった地元・東大味町の人たちは、恩人である光秀の遺徳を偲んで坐像を作ってひそかに祀ったそう。
近隣3軒の農家が、光秀像を守り続けたんだって。
明治に入って、ようやく神社として光秀像を公に祀ることができるようになったんだ。
現在でも地元・東大味町の人達は光秀を下って命日である6月13日には毎年法要が営まれているそう。
その法要での祭礼では、御開帳が行われ、本尊の光秀の木像を見ることができるんだよ。