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2020年7月15日
「麒麟がくる」では、女性たちが立膝をついたり、あぐらをかいて座っている姿が描かれているよね。
この姿に驚いた人もいるはず。
今の時代、女性が立膝をついたり、あぐらをかいて座ったりすることはあまりよくないよね。
なぜ、高貴な女性たちがなんでことをするんだろう…って思った人もいるはず。
実は戦国時代には女性の立膝やあぐらをかいて座ることは一般的に行われていたんだ。
今回は今とは違う、戦国時代の習慣についてまとめてみよう。
目次
【戦国時代、女性は立膝をついたり、あぐらをかいて座っていた】
「麒麟がくる」の作中では、当時のリアリティーのある表現を大切にしているんだ。
光秀の母・お牧役の石川さゆりさん、帰蝶役の川口春奈さんなど、身分が高い女性たちは、片方の膝を立てて座っているよね。
実際に、戦国時代は女性たちは立膝をついたり、あぐらをかいて座ったりすることが一般的だったそう。
当時、畳はとても高価なものだったため、家の床は武士の家であっても「板の間」なのが普通だったの。
そのため戦国時代には、まだ畳文化が普及していないから、女性でも立膝やあぐらが普通だったんだよ。
実際に、戦国時代に描かれた絵を見ても、立膝をついた女性の絵が描かれているんだ。
また、立膝であればいつ敵が襲ってきても、すぐに立ち上がることができるよね。
戦国時代は、いつどこで誰が襲ってくるかわからない世の中だったから、すぐに立ち上がれる姿勢でいるということは当たり前のことだったのかもしれないね。
現代の日本人が見ると、女性が膝を立てて座るなんて、行儀が悪い…と思ってしまうけれど、戦国時代までは身分の高い女性は立膝をするのが正しい作法だったんだよ。
【立膝は高貴な女性の座り方だった】
「麒麟がくる」に登場する駒(門脇麦)は、誰の前でも正座で座っているんだ。
お牧や土田御前のように立膝で座ることがないんだよ。
これは、駒の身分が高くなく、年齢も若いので周囲の人に気を使って常に正座をしているからなんだ。
立膝は誰もがするわけではなく、基本的には身分の高い、高貴な女性の座り方として浸透していたんだよ。
【戦国時代までは正座はあまり一般的ではなかった?】
現代の日本人であれば、礼儀正しい座り方といえば、正座を思い浮かべるよね。
けれど、戦国時代までは正座はあまり一般的ではなかったんだ。
特に身分の高い人は正座で座る機会はとても少なかったんだよ。
家の女主は夫、子供たち、家臣、侍女の前では立膝で座り、主君、家格、身分が高い人の前では正座で座っていたそう。
つまり、相手によって座り方を変えていたんだよ。
「麒麟がくる」の中でも、光秀の母・お牧(石川さゆり)は、光秀(長谷川博己)や義理弟の光安(西村まさひこ)の前では立膝で座り、主君の娘の帰蝶(川口春奈)が家に来た時は正座で迎えたんだよ。
また、信長の母・土田御前(檀れい)も織田信秀(高橋克典)の側に座る時、織田信長(染谷将太)の前ではどちらも立膝なの。
ドラマの中では細かいところまで表現にこだわっているんだ。
【立膝はいつなくなった?】
現在では、女性が立膝をするということはないよね。
では、いつから女性は立膝をしなくなったんだろう?
それはずばり「江戸時代」からなんだ。
江戸時代に入ると、徳川幕府は儒教を採用し、武士階級に儒教を広め始めたんだ。
この儒教は、上下関係の徹底が強く、武士と町民の身分、主君と家臣の身分をはっきりさせるために広めたの。
儒教では、女性の地位が低く、江戸時代には男女の立場も上下に分けていたため、女性は正座するのが当たり前という考えに流れたんだって。
さらに、畳や茶道の普及も、立膝がなくなった要因の1つになっているの。
板の間で正座をするのは大変だけれど、畳の場合は、正座をするのが大変ではないよね。
戦国時代には普及していなかった畳が、江戸時代に入り広く普及するようになり、正座が広まったんだ。
また茶道が普及することで畳の場で過ごすことが多くなり、正座が一般的になったとも言われているよ。