本能寺の変で明智光秀は自ら襲撃はしていない?!部下に襲撃させたという説が浮上
2021年1月10日元の主君から逃げて明智光秀の重臣となった斎藤利三とは?光秀が最も信頼していた臣下の1人だったって本当?
2021年1月10日
「麒麟がくる」第38話では坂本城に預けられていた三淵藤英に織田信長から自害するように下知があったよね。
この三淵藤英とはいったいどんな人物だったんだろう?
ここでは三淵藤英についてまとめてみよう。
目次
【なぜ三淵藤英は織田信長から自害するように通告されたの?】
三淵藤英は将軍・足利義昭につき織田信長と抵抗していた幕臣なんだ。
三淵藤英は居城である伏見城を取り壊されて、明智光秀の坂本城に幽閉されていたんだけど、信長から最終処分が下ったんだ。
それが「今日一日の内に自害せよ」というもの。
三淵藤英が追放された将軍・足利義昭と文を交わして、信長を討とうとしていたことが発覚してためにこのような処分が下ってしまうの。
【三淵藤英はどんな人物だった?】
三淵藤英(みぶちふじひで)は戦国時代の武将で室町幕府末期の幕臣でもあったんだ。
異母弟には細川藤孝がいるよ。
三淵藤英は足利義昭が織田信長に擁立されて将軍になると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられたんだ。
その後も藤英は南山城の軍政を率いて義昭を襲った三好氏との戦いに参戦するなど戦でも活躍したよ。
幕府奉行衆として摂津や河内に出陣して公家と交渉したり、寺院の領域について裁定したり、盗賊を取締ったりと様々な活躍があったと記録が残っているんだ。
また三淵藤英は政治にも手腕を発揮して、足利義昭の重臣となったよ。
義昭からこれだけの仕事を任せるだけの信頼を得て、それをこなせる力量があった優れた幕臣だったんだ。
この頃、藤英は伏見城を与えられて、弟である藤孝は勝竜寺城を与えられて、京都周辺を固めていたの。
兄弟にとってもこの当時は、とても仲がよく幸せな時代だったと考えられているよ。
しかし、この後、信長と義昭が仲違いを起こすことで、三淵藤英と細川藤孝の仲も壊れてしまうんだ。
義昭と信長が対立するようになると、異母弟である藤孝が義昭を裏切って信長方に付いたことを知って激怒。
藤孝の居城であった勝竜寺城を襲撃する計画を立てるもののあえなく失敗。
元亀4年7月3日に義昭が挙兵すると三淵藤英も従ったよ。
義昭は打倒信長の兵を挙げて、兄・三淵藤英は足利家に殉じることに。
一方、弟・細川藤孝は織田家に付くことを選んでしまうんだ。
【義昭とともに戦い降伏】
挙兵した義昭は、槇島城に籠城すると、藤英に二条城を任せるよ。
藤英は奉公衆の伊勢貞興らとともに籠城。
しかし、信長率いる織田軍に囲まれると元亀4年7月8日には藤英以外の主要人物はみんな退去してしまうんだ。
結局、藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となって、柴田勝家の説得を受けて2日後に降伏。
降伏した後、藤英は居城である伏見城に戻ったものの、その目前にある槙島城が織田軍の総攻撃によって陥落してしまうの。
降伏した足利義昭は信長によって河内国の若江城へ追放されてしまい、事実上、室町幕府は滅亡してしまうんだ。
義昭の追放によって藤英も信長につかえることになり、淀城に籠城していた義昭派の岩成友通を攻めることになったよ。
その翌年には信長の命令によって、藤英の所領は全て没収されて、明智光秀の元に幽閉されてしまうの。
そして嫡男の秋豪とともに坂本城で、信長から自害を命じられてしまうんだ。