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2020年9月24日お人よしで優しい性格だった三好長慶は兄弟の死に耐えられなかったって本当?!悲しい三好長慶の結末とは?
2020年9月24日「麒麟がくる」第22回では、信長が今川義元氏を討ち倒した桶狭間の戦いから4年後が描かれているね。
その頃、今日では山路和弘さん演じる三好長慶が権力を掌握して、将軍・足利義輝は完全に傀儡になり下がっていたんだ。
今回は、京の実権を掌握していた三好長慶にスポットを当ててみよう!
目次
【三好長慶ってどんな人物だったの?天下人だったのでは…とも言われている?!】
天下人と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をイメージするよね。
実は、信長の前に「天下人だったのでは?」と言われているのが、京の実権を掌握していた三好長慶なんだよ。
三好長慶は12歳の若さで和睦の仲介人として交渉をまとめ、政局に引っ張り出されると、その後ぐんぐんと出世を果たすの。
「麒麟がくる」の中では、吉田鋼太郎さん演じる松永久秀を家臣に従えていたことでも知られているよね。
阿波出身である三好長慶は、室町幕府を支える有力大名であった細川氏の重臣として畿内で力を蓄え、やがて主君の細川氏、さらには室町幕府の将軍をもしのぐ権力者となっていったんだ。
その勢力圏は、最盛期には山城、大和、摂津、河内、和泉の五畿内に、阿波、淡路、佐貫、丹波、端午、播磨東部まで及んだそう。
これらの広大な勢力圏を治めるために活躍したのが、三好長慶を支えていた一門・重臣たちなんだ。
その中でも、弟・三好実休の功績はよく知られており、故郷・阿波をゆだねられ兄の覇業を支えたと言われているよ。
三好長慶の実権は「三好政権」と呼ばれており、信長や秀吉に先駆けて足利将軍中心の村町幕府体制から脱却した中央政権として、近年再注目されているよ。
【父の仇・細川晴元に仕えていた】
三好長慶の父・三好元長は、主君・細川晴元の重臣で、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者でもあったの。
しかし、父・三好元長は細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆に討たれて自害。
主君から見限られた元長の無念はすさまじく、自害の様は壮絶なものだったと言われているの。
そんな父の仇である細川晴元に、三好長慶は仕えていたんだ。
父の仇との共闘は続くものの、1448年に三好長慶は伯父であり父の仇でもある三好政長を追放しようとするの。
しかし、主君である細川晴元はこれを許さず、そのことが原因で三好長慶と晴元の関係は悪化し、対立。
長慶はかつての敵であった、細川氏綱、遊佐長教と結びついて晴元に反旗を翻すことになるんだ。
【三好政権の樹立と畿内平定】
三好長慶は幕府の首脳陣が不在となった京に入ると、細川氏綱を管領に就かせるの。
つまり、三好長慶が幕府と京都の実権を握ることになって、ついに三好政権が樹立したんだ。
長慶の勢いにおされ、細川晴元と将軍・足利義輝は京都から近江へと逃亡。
そこで六角定頼の支援を受けて京都郊外の東山にある銀閣寺裏山に中尾城を築城して、京都奪還を試みるものの敗れてしまうんだ(中尾城の戦い)
1551年には、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが3000人を率いて相国寺を陣取るよ。
これに対して、長慶側は松永久秀・長頼らが摂津・阿波・和泉などから集めた4万の大軍で相国寺を包囲。
結局は、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走することになるんだ。
この戦いによって、細川晴元、足利義晴らの帰京は不可能となり、六角定頼は和睦交渉をはじめ、三好長慶は和睦に応じることになるよ。
【三好政権は新たな文化・技術が普及した時代】
三好長慶が実権を握っていた、三好政権時代は、茶の湯、キリスト教、鉄砲など新たな文化や技術が普及し始めた時代でもあるんだ。
この時代があったからこそ、その後につづく桃山文化へとつながる母体が形成されていったと言われているよ。
この三好政権時代は、文化史の変革期にも位置付けられているんだ。
ちなみに三好氏にゆかりのある史跡は、西宮市、高槻市、大東市、堺市、徳島県内、弟・実休が本拠とした勝瑞城館など数多くあるんだよ。
四国と畿内を制覇していた三好長慶は、大阪湾沿岸をつなぐ架け橋的存在となったんだ。