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2020年6月3日
美術の教科書などで風神雷神図屏風を一度は見たことがあるという人がほとんどだよね。
この超有名な風神雷神図屏風を描いた絵師といえば「俵屋宗達」だよ。
ここでは俵屋宗達がどのような人物だったのか、まとめてみよう!
目次
【俵屋宗達ってどんな人物だったの?】
俵屋宗達は江戸時代初期に京都で躍した画家だよ。
俵屋宗達は尾形光琳と並んで称せられる近世初期の偉大な画家なんだけど、知名度の高さに比べてその生涯に関しては不明な点が多いんだ。
本人に関する資料はとても少なく、生まれ年もよくわかっていないんだよ。
親交のあった文化人の角倉素庵(1571-1632)や公卿の烏丸光廣(1579-1638)らと同世代と考えられているの。
俵屋宗達は「俵屋」という絵屋と呼ばれた絵画工房を率いていて、扇絵を中心とした屏風絵など紙製品全般の装飾を制作していたといわれているんだ。
また俵屋宗達は広島にある世界遺産である厳島神社の平家納経の補修事業へも参画していたの。
そのほかにも、皇室から作画の依頼を受けたり、当時一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦の書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したんだって。
このことからも俵屋宗達が一流の絵師としてみなされていたことがよくわかるね。
俵屋宗達は教養人であったことも知られているよ。
当時有数の茶人であった千少庵を茶の湯に招いたとも言われているんだ。
【俵屋宗達の代表作「風神雷神図屏風」】
俵屋宗達は本阿弥光悦の引き立てで絵師として名を馳せ、数多くの名画を創出した絵師だよ。
数多くの作品の中でも特に有名なのが「風神雷神図屏風」
もともと脇役であった風神雷神を二曲一双の屏風のメインにした、画期的な名画なんだ。
主題も技法も従来の伝統にとらわれていない作品といえるよ。
貼り付けられた金箔や描かれる物象の形を際立たせて、無限の奥行をもつ濃密な空間を表現しているの。
実はこの風神雷神図屏風に関しては、尾形光琳や酒井抱一、鈴木其一らが模倣作品を制作しているんだ。
さらに風神雷神図屏風は2021年に開催予定の東京オリンピック・パラリンピックの記念硬貨のモチーフにも採用されているよ。
【京都の扇屋から法橋の位へと大出世した俵屋宗達】
俵屋宗達という名前は、扇絵、屏風絵、金銀泥の下絵などの絵画を制作・販売する「俵屋」を営んでいたことから付けられたものなんだ。
俵屋宗達が絵師として広く知られるようになったのは、芸術家であった本阿弥光悦が自身の書の下絵を俵屋宗達に描かせたことがきっかけだよ。
その後、大画面の障壁画に取り組むようになった俵屋宗達は代表作である「風神雷神図屏風」や金碧画や水墨画の名画などを次々と制作。
60歳を過ぎた頃には朝廷から法橋に叙せられたんだ。
「法橋」とは僧侶の位階に準じた高位であり、町人であった俵屋宗達としては異例の大出世だったよ。
【琳派の創始者となった俵屋宗達】
琳派とは、桃山時代後期~近代まで活躍した同じ傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派だよ。
この琳派は尾形光琳の「琳」という一字が使われているから、尾形光琳からはじまった流派だと勘違いしている人が多いんだ。
でも、実際には琳派は俵屋宗達が創始者と言われているよ。
光琳が手本としていたのは俵屋宗達の絵だったんだ。
ふたりの活躍時期は100年ほどの隔たりがあるものの、尾形光琳は俵屋宗達の「風神雷神図屏風」や「松島図屏風」などを模写して、デザイン的な作画法やたらし込み技法などを学んだと言われているよ。
さらに俵屋宗達の「舞楽図屏風」の大胆な金地構成に習い、俵屋宗達の画法を習得していくんだ。
尾形光琳と俵屋宗達のように、師弟関係にない者が先人の残した作品から学ぶことを「私淑」と呼ぶよ。
尾形光琳は俵屋宗達に私淑し、さらに光琳に私淑した酒井抱一などが続き、琳派は時を声て長く受け継がれることになったんだ。