明智光秀の主君・斎藤道三は「美濃のマムシ」と呼ばれてた?!
2020年6月11日上杉謙信の最強武将エピソードがことわざの由来に?登場ドラマや演じた俳優もまとめてみた
2020年6月14日
加納口の戦いで明智光秀の主君である斎藤道三と戦った織田信秀。
織田信秀はいったいどんな人物だったんだろう?
今回は織田信長の父親である織田信秀についてまとめてみよう。
目次
【織田信秀ってどんな人物だったの?】
麒麟がくるの中では高橋克典が織田信秀を熱演しているよ。
戦国ファンの間では、織田信秀は勇将であったと人気があり、「信長公記」にも登場しているんだ。
信長の名前が大きすぎるため、織田信秀の一族が本筋のようなイメージがあるんだけど、実は織田信秀一族は織田家の本筋ではないんだ。
織田の本家は守護代を受け継いでいる織田大和守家で、信秀が生まれたのは分家筋の織田弾正忠家なの。
「麒麟がくる」の中で、信秀を邪魔する織田彦五郎(織田信友)が登場するけれど、この彦五郎こそが織田大和守家、つまり織田本家なんだ。
信秀を敵視するのは、本家と分家なので仕方ないんだよね。
信秀は17歳で父親の生前に、家督を継承。
若い頃から才能があったと言われているよ。
23歳の頃に、名古屋城を奪って本拠としたよ。
【お金重視の政策を行っていた】
織田家は、信秀の父・織田信定の時代からお金重視の政策を行っていたんだ。
信定(信長の祖父)は、門前町である津島の地に目を付けて、津島を手に入れて莫大な利益を得ていたんだ。
門前町とは、お寺や神社の前の町で、参拝客相手に色々な商人が集まり、にぎわっていたんだよ。
津島は川が近いこともあって水運も盛んだったため、かなりにぎわっていたと言われているんだ。
「麒麟がくる」の中でも、当時日本で最大の商業都市だった「堺のようだ」と驚嘆している場面があったよね。
信秀自身も門前町である熱田を手に入れて、さらに財源を増やしたそう。
元々は、弱小分家だった織田弾正忠家が、本家・主君である織田大和守家に対抗していくためにお金という武器を手に入れたんだよ。
また、信秀は朝廷との関わりもあり、将軍・足利義輝にも拝謁していたんだ。
息子の信長も家臣を連れてお忍びで京都へ上洛したことがあり、この時に足利義輝と面会を取り付けているの。
これは、父・信秀が過去に貢献したことも影響していると言われているよ。
【対立していた斎藤道三との和解は「縁談」によるもの】
加納口の戦いで、斎藤道三の稲葉山城を襲撃した織田信秀だったけれど、斎藤軍に大敗。
その後も侵攻は続くものの、織田信秀と斎藤道三は和睦を結ぶことになるんだ。
この時、織田家は東に位置する今川家にも押され始めていて、何とかして打開策を考えなければいけなかったの。
そこで信秀が「信長の爺や」である平手政秀(上杉祥三)に「斎藤家の姫をもらって和睦の道を開け」と命じたんだ。
平手政秀の頑張りによって、縁談はうまくいき、斎藤道三の娘である帰蝶(川口春奈)は、織田信長(染谷将太)の元に嫁ぐことに。
これによって美濃方面の問題は片付いたよ。
【信秀は若くして亡くなる】
斎藤家との和睦を果たした後、今川家を攻めあぐねいていた頃、信秀は41歳という若さで突然亡くなってしまうよ。
信秀の葬儀では信長が焼香を投げつけたというのは有名なエピソードだよね。
なぜ焼香を投げつけたのかは定かではないけれど、
信長の身になって好意的に考えてみれば、「まだ尾張一国すらまとめられていないのにさっさと死にやがって馬鹿野郎!」という気持ちが強かったのかも。
急な父親の死に対して、愛情の裏返し的な行為だったようにも取れるよね。
今川家との戦では、外交手段を使い分けて対抗していたそう。
信秀は暴れん坊なだけではなく、天下を取れる素質はあったのではないか?とも言われているよ。
また信秀には20人以上の子供がいたとされているんだ。