大阪城の櫓は重要文化財!お城の櫓とは?読み方・意味・語源・種類まで…ナゾを解決!
2020年5月29日利休十哲のひとりで織田信長の弟、織田有楽斎とは?
2020年6月1日
小寺休夢は黒田休夢とも呼ばれていて、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将だよ。
この小寺休夢は茶人としても有名だったんだ。
また、小寺休夢は黒田官兵衛の叔父にあたるんだよ。
ここでは、小寺休夢についてまとめてみよう。
目次
【小寺休夢ってどんな人物なの?】
小寺休夢は、黒田官兵衛の叔父として有名だよね。
実名は高友といい、茶人としても著名なんだ。
大永5年(1525年)に黒田重隆の子として生まれた小寺休夢は、黒田官兵衛の父である職隆の弟にあたるんだ。
小寺休夢は武将でありながら、茶人としても有名で、出家して随願寺の塔頭である地蔵院に住んでいたという記録も残っているよ。
黒田家を支える武人としては、官兵衛に従って三木合戦で活躍したと言われているの。
永禄5年(1562年)に起こった三木合戦は、黒田官兵衛の初陣であり、そこで小寺休夢は官兵衛を守る働きをして活躍したんだよ。
三木合戦といえば、「三木の千殺し」と呼ばれる兵糧攻めが歴史上とても有名だよね。
三木合戦は、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)1月にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦だったんだ。
羽柴秀吉が行った播州征伐の1つであり、別所氏は播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に籠城し、秀吉は兵糧攻めを行い3000人もの武士や農民を飢え死にさせたよ。
やがて小寺休夢は、織田信長の弟である有楽斎などとともに官兵衛が仕えた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に側近として仕え、寺社との交渉なども行っていたそう。
この茶会は、天正15年(1587年)に九州遠征中の豊臣秀吉より、浜での茶会に招かれたんだ。
その時に、秀吉の命令を受けた千利休は、松に鎖を卸し、雲龍の小釜をかけ、白砂の上に松葉をかき集めて湯を沸かしたとされているよ。
また、小寺休夢は和歌にも秀でていたそう。
小寺休夢は黒田官兵衛が主役のNHK大河ドラマ「軍事官兵衛」にも登場しているからチェックしてみよう♪
【僧になった小寺休夢】
小寺休夢の本名は、黒田高友。
黒田高友は僧となって、小寺休夢(黒田休夢)と称して、増位山の地蔵院に住んでいたそう。
黒田官兵衛の生母である明石宗和の娘・いわと共に、文人との評価が高い黒田官兵衛に大きな影響を与えたんだよ。
小寺休夢が住んでいた増位山は三木家の別所長治との間でたびたび戦場となっていたんだ。
1573年には小寺休夢が守る有明山城を攻撃して落城させ、さらに増位山も攻めて、別所勢が寺塔をことごとく破却してしまうんだ。
しかし、1586年には羽柴秀吉によって再興されているよ。
【黒田官兵衛と小寺休夢のゆかりの地「増位山随願寺」】
黒田官兵衛の叔父である小寺休夢は、増位山随願寺の近くに地蔵院を建てて暮らしていたんだ。
小寺休夢は、官兵衛の母と同様に和歌に優れていて、黒田官兵衛は叔父のところに頻繁に出かけては和歌や様々な学問を学んでいたと言われいてるよ。
増位山随願寺の供養塔には、小寺休夢の名が刻まれていることも5年ほど前に明らかになったんだ。
供養塔は、随願寺本堂の南西約200mにある地蔵院跡の斜面にあり、高さは約95㎝、幅約30㎝、奥行き約25㎝で花崗岩で作られていたの。
この供養塔は江戸時代中期に建てられたとみられていて、小寺休夢の他にも随願寺の17代住職の道邃や、関係が深い僧侶7人の名前が刻まれていたんだ。