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本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛はどんな人物だったの?

『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛) from wikipedia

 

「麒麟がくる」第43話では丹波平定をやってのけた明智光秀や細川藤孝の功績を信長は高く評価したよね。

その一方で、本願寺攻めが進まない佐久間信盛に対しては叱責し、ついには本願寺攻めの総大将であった信盛を追放してしまうんだ。
ここでは佐久間信盛についてまとめてみよう。

 

将軍レモン
将軍レモン
成績が振るわないから、信長様に目をつけられてしまったのだ。。。。

 

【佐久間信盛はなんでも卒なくこなすタイプだった?家督相続後に抜擢される】

 

佐久間信盛の初期の経歴に関しては不明点が多く、生誕年もはっきりしていないんだ。

若い頃から佐久間信盛は信長の父・織田信秀に仕えていて、信秀の葬儀の際には、信長の弟・信行にお供していたそう。

 

その後、家督相続問題が起こってからは一貫して信長を支持し、信長の叔父・織田信次の家臣であった角田新五らを寝返らせたり、信長の弟・信行の謀反の際には、稲生の戦いで合戦したりしたよ。

 

いち早く信長の信頼を得て重用されるようになった佐久間信盛は、信長の家督相続後に抜擢。
それ以後、信長の所領拡大の過程において重要であった合戦のほとんどに参戦しているんだよ。
織田信長家臣団の筆頭格として扱われていたんだ。

 

将軍レモン
将軍レモン
歴代の武将と並んでいろんな合戦に出ていたよ!

 

【殿が得意で「退き佐久間」とも呼ばれていた?】

 

数多くの戦いに参戦していた佐久間信盛は、撤退の際、最も後方で敵に近い位置になる部隊である「殿(しんがり)」を得意としていたんだ。
そのことから「退き佐久間」とあだ名をつけられる戦上手な武将であったんだ。

 

桶狭間の戦いや越前や長島など各地で起こった一向一揆などでは数多くの功績を残しているよ。

信長の転機となった今川義元との桶狭間の戦い(永禄3年)では、佐久間信盛は善照寺砦を守備し、今川兵200を討ち取る功績を残したの。
戦後、その恩賞として鳴海城を与えられて、佐久間信盛の子・信栄とともに守備したんだ。

 

レモン姫
レモン姫
「退き佐久間」と呼ばれていても逃げ足が早いという意味じゃないわよ!!

 

【近江支配体制の一角を担った佐久間信盛】

 

永禄10年(1567年)には信長の長女・徳姫が徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いだ際に、信盛が警護役を務め、三河国岡崎城まで供奉しているんだ。

また翌永禄11年(1568年)には信長が足利義昭を報じて上洛。
これに従軍した信盛は、六角義賢の支城・箕作城を攻略したんだ。

 

さらに上洛後、幾内の政務や治安維持を任されて京都に留まっているよ。
信盛は畿内の実力者であった松永久秀と交渉して味方につけるなど、外交面も広く任されており、その手腕を買われていたんだ。

元亀元年(1570年)には近江国の永原城を任されており、近江支配体制の一角を担うことになったよ。

 

 

【失態を繰り返してしまう信盛】

 

これだけ信長からの厚い信頼を受けていたのに、最終的には信長から追放されてしまう佐久間信盛。

そこには数々の信盛の失態があったからと言われているんだ。
ここでは本願寺の戦い前の信盛の失態をまとめてみよう。

 

 

<三方ヶ原の戦いでは無傷で退去>

 

佐久間信盛の1つ目の失態と言われているのが、元亀3年(1572年)に起こった徳川家康VS武田信玄の戦い「三方ヶ原の戦い」だよ。

 

佐久間信盛はこの戦いで織田家の援軍として戦場へ向かうものの、なんの功績をあげることもなく無傷で退去してしまうんだ。

そもそも、織田家から派遣された佐久間信盛のいた援軍はわずか3,000程度だったの。
そのため信長としては武田信玄との直接対決を控えるよう、家康を監視するために援軍を送ったのでは?とも考えられているんだ。

 

ただ、佐久間信盛とともに織田家から派遣された平手汎秀は討ち死にしてしまうの。

平手汎秀は、信長の爺やとして知られている平手政秀の子であり、猪突猛進タイプの武将だったんだ。
無茶な戦いをしたせいで討死したとされているけれど、佐久間信盛の部隊だけ無傷であったというのは信長にとっても印象はよくなかったと言われているよ。

 

レモン姫
レモン姫
爺やが死んでなんでお前は無傷やねん!って思ったんだろうね

 

<一乗谷城の戦いで信盛は先陣なのに本陣よりも遅れてしまった>

 

2つ目の失態となったのが、天正元年(1573年)8月に起こった信長軍VS越前・朝倉氏の一乗谷城の戦いだよ。

 

信長は佐久間信盛ら先陣の家臣に対して、朝倉氏を逃がさないように厳しく命令していたんだ。

しかし、朝倉軍が撤退した時に、佐久間信盛ら先陣の追撃は、信長がいる本陣よりも遅れてしまったの。

 

この失態に関して信長は信盛を叱責しているんだ。

しかも、この時に柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益など他の先陣の諸将は謹んで陳謝したのに対して、佐久間信盛は涙を流しながら弁明したとか。
その態度がさらに信長を激怒させたと言われているの。

 

信盛は失態を繰り返したものの、実質的なお咎めはその時には受けていないんだ。
その後も、長島一向一揆、や天正3年(1573年)に起きた長篠の戦い、高屋敷の戦い、越前一向一揆などに相次いで出陣し、主な戦いに全て参加したんだよ。

 

次回は、なぜ佐久間信盛が信長から追放されてしまったのか?その理由についてまとめてみよう。

 

レモン姫
レモン姫
泣いて許してもらおうとしたのになー!!