本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛はどんな人物だったの?
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2021年2月15日信長の期待を一身に受け、本願寺攻めの総大将を任せられていた佐久間信盛。
しかし10年にわたる本願寺との戦いが終わった直後、信盛は信長から19ヵ条の折檻状を突きつけられ、これまで築いた地位を失ってしまうんだ。
ではなぜ信長は佐久間信盛を追放したんだろう?
ここではその理由について迫ってみよう。
目次
【難敵・石山本願寺攻めの総大将に任命されたものの、成果を挙げられなかった】
信盛は天正4年(1576年)に、石山本願寺攻略の総士官を信長から任されることになったよ。
しかし、本願寺攻略は一筋縄ではいかず、丸4年間なんの成果も出すことができなかったんだ。
織田家の中でも1、2を争う兵数を用意できたのにも関わらず、信盛は謀略も力攻めも仕掛けなかったと信長から叱責されてしまうの。
確かに石山本願寺の攻略は非常に難題だったんだ。
鉄砲集団で信徒の雑賀衆が防御に入っていたため、鉄砲の威力で城へ近づけなかったの。
また石山本願寺攻めの間に、紀州征伐や松永久秀の戦いにも駆り出されていた信盛はなかなか成果を上げられなかったんだ。
けれど、秀吉も光秀もみんないくつもの戦をこなしながら平定をしているから、それは理由にならないよね。
結局、天正8年(1580年)本願寺の包囲戦は何も変化がないため、信長は佐久間信盛の怠慢ぶりにしびれを切らしたんだ。
信長自ら朝廷を通じて石山本願寺との和睦にこぎつけることになるよ。
両者は終戦し、この時信盛は松井友閑とともに和睦の使者になっているんだ。
【19ヶ条の折檻状とは?】
本願寺との和睦が結ばれた天正8年(1580年)、佐久間信盛は信長から19ヶ条にも及ぶ折檻状(お叱りの手紙)が突き付けられたの。
この19ヶ条の折檻状は信長自らが自筆で書き、楠木長安・松井夕閑・ 中野一安の3人を使者として使わせたそう。
信長は将軍・足利義昭に対しても17条の意見書を提出しているし、細かい指摘文が得意だったのかもね。
信盛に渡した19ヶ条の折檻状には、色々な事が書かれていたんだけど、その中で特にも天王寺城に在城している数年の間にさしたる功績がなかったこと…
つまり本願寺攻めに失敗したことに対して信長は非常に怒っていたよ。
討ち死に覚悟で働くか、高野山へ追放するかどちらかを選ぶことができたんだけど、佐久間信盛は後者「高野山への追放」を選んだんだ。
佐久間信盛は剃髪して「宗盛」と号し、嫡男である佐久間信栄と共に高野山へ逃げたよ。
その数日後には林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝も同様に信長から追放されているんだ。
【佐久間信盛の最期】
高野山に逃げた佐久間信盛だったけれど、高野山の居住すら許されず追われることになり、あてもなく熊野の奥に逃亡するよ。
これまで付き従っていた者たちにも次々見捨てられ、高野山を落ちる際の従者はわずか2、3名だったそう。
十津川山中武蔵の里に到着した時には、1名きりで、身の回りのものにも不自由で哀れな有様であったと「信長公記」には書かれているんだ。
最後は熊野の奥で病気湯治中に死去したよ。
佐久間信盛の死去後、嫡男である佐久間信栄は織田信忠の家臣として帰参を許されたよ。
明智光秀による本能寺の変後は、織田信忠の弟・織田信雄に仕え、その後は豊臣秀吉の茶人となったんだ。
大坂の陣後は、徳川秀忠に御咄衆として横見郡に3,000石を与えられたよ。