なぜ荒木村重は主君である織田信長を裏切ったの?
2021年2月8日全てを失った荒木村重は晩年、茶人となり活躍したって本当?!
2021年2月8日
前回は荒木村重がなぜ信長を裏切ったのか?についてまとめたよね。
今回は、有岡城での籠城戦についてまとめてみよう。
目次
【籠城を支持した重臣たちは次々に離反】
信長は、謀反を起こした荒木村重を孤立させるために、大坂湾の制海権を奪取。
さらに籠城を勧めた荒木村重の右腕である重臣・高山右近と中川清秀に攻め寄ったんだ。
まずは熱心なキリスト教信徒であった高山右近のもとに宣教師を派遣して、織田家への寝返りを説得。
この宣教師は信長から「説得に失敗したら破門にする」と脅されていたそう。
村重に妹や子供を人質に出していた高山右近は悩むものの、結局は離反を決意。
さらに信長は、村重のもう1人の重臣である中川清秀に対しては、金と加増を約束することで離反に成功させたよ。
こうしてあっけなく重臣たちが離反してしまったために、荒木村重は孤立していってしまうんだ。
ちなみに中川清秀は荒木村重が信長への謀反を行った原因を作った人物であると言われているの。
中川清秀は石山合戦の際に、石山本願寺への兵糧を横流しにしていたんだ。
このことが信長に発覚するのを村重は恐れていたことも謀反の1つの要因になっていると言われているよ。
さらに一度は信長への恭順に傾いていた村重を、あえて説得して籠城へ導いたのも重臣・中川清秀だったよね。
村重にとっては従兄弟であり、重要な家臣であった中川清秀が自分を裏切るということは、村重にとっては思ってもいなかった出来事だったよ。
【有岡城での籠城戦】
重臣たちに裏切られてしまった荒木村重だけど、嫡男である荒木村次の正室は、実家である明智家へ送り返し、高山右近の妹や子に対しては危害を加えず解放したの。
秀吉からの派遣によって訪れた黒田官兵衛に関しても、官兵衛の主君である小寺政職から殺害依頼があったにも関わらず、それに応じず幽閉にとどめたんだ。
村重にとって、人質を取引材料にするという考えはなく、武家の意地を最後まで貫いたんだよ。
しかし信長軍は、村重に対して容赦なく迫ったんだ。
村重の味方となっていた摂津国の農民はすべて討ち殺し、村々を放火。
開戦から2ヶ月後には、3万の兵で有岡城を総攻撃することになるんだ。
猛攻に耐えた村重に対して、信長は、力攻めでは難しいと判断し、兵糧攻めに切り替えて戦ったの。
包囲戦はその後、約10ヶ月も続いたよ。
【妻子を捨てて逃亡した村重】
毛利家からの援軍を頼りにしていた村重だけど、その元に助けが来ることはなかったんだ。
限界を感じた村重は驚く行動に出るよ。
なんと、ある夜数名のお供だけを引き連れて有岡城を脱出して、荒木村次が守る尼崎城へ逃亡したんだ。
尼崎城は、有岡城と違って、海路に面していて毛利家からのも援軍が受けやすい城でもあったんだよ。
村重のいなくなった有岡城は陥落。
信長は村重の元へ使いを出し、「尼崎城とその支城である花隈城を開城して降伏すれば、有岡城に残っていた妻子や一族を助命する」と提案したよ。
しかし村重は信長からの提案を拒否。
この村重の言動に信長は大激怒し、「荒木一族は武家人にあらず」として残忍な仕置きを行うことになるの。
有岡城に残っていた人間のほぼ全てを処刑するように命じたよ。
村重が籠城する尼崎城の近くで、重臣の家族122名を処刑し、さらに家臣とその家族512名を農家に閉じ込めて焼き殺したんだ。
さらに村重の妻子や重臣36名に対しては、市中を引き回し、京都の六条河原で斬首。
村重は人情よりも武家の意地を貫いたんだけど、この決断によって「一族を見殺した男」とみなされるようになってしまうの。
信長が下した過酷な処刑に関しては否定的な記述が多く信長公記においても、
「22人の女たちが一度に悲しみ叫ぶ声が、天にも届くばかりに上がり、これを見る人々も涙を抑えることができなかった。見た人は、20日も30日もその光景が目に焼き付いて離れなかった」「地獄の鬼の呵責かと思われた」と記されているんだ。
また立入左京亮宗継入道隆佐記では「このような恐ろしい御成敗は、仏様の時代から考えても初めてのことだろう」と記されているよ。
戦国時代においても、この処刑は前代未聞の処罰であったと言われているんだ。
【その後の荒木村重は?】
天正8年(1580年)、最後の抵抗拠点となった尼崎城と花隈城が陥落。
荒木村重は毛利家を頼って海路で亡命し、非難を受けながらひっそりと暮らすことになるよ。
村重は己の非道を誰よりも自覚していたと言われていて、自ら「荒木道糞」と名乗っていたそう。
時代は流れ、秀吉が天下統一を果たした後、荒木村重は茶人となっていたの。
かつての戦友でもあった豊臣秀吉の元を訪れた村重に対して、秀吉は「荒木道糞」という異名を知り、「荒木道薫」と名を改めさせ、秀吉の相談役として召し抱えたと伝えられているよ。
その後、秀吉の元を去った村重は、堺で52年の生涯に幕を閉じたんだ。