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天王寺砦の戦いで戦死した原田直政とは?京の政治実務を担当した優秀な家臣だった?

信長公記/陽明文庫所蔵

 

「麒麟がくる」第39回では、織田軍VS本願寺の天王寺砦の戦いが描かれているね。

先陣として戦った原田直政はこの戦いで本願寺の鉄砲軍に討ち死にしてしまっているんだ。

では、大和の守護であった原田直政(塙直政)はどのような人物だったんだろう?
ここでは原田直政についてまとめてみよう。

 

 

【原田直政は信長親衛隊・赤母衣衆の出身だった】

 

原田直政は尾張・春日井郡出身で、永禄10年(1567年)に設置された織田家の赤母衣衆に後から加わったとされているんだ。
この赤母衣衆とは信長の直属部隊で、前田利家がリーダーを務めていたこともあるよ。

 

赤母衣衆に仕えていたということは、織田家から一定の信頼を得ていたことが分かるよね。
この当時の原田直政に関する記録はあまり残っておらず、官僚的な仕事を徐々に任させるようになったのは永禄12年頃からと言われているよ。

 

原田直政は、鉄砲調達を命じられたり、信長への客人を取り次いだりと様々な職務を行っていたんだ。
また明智光秀とともに寺院へ税金を課したりもしていたそう。

 

将軍レモン
将軍レモン
いろんなことをこなしていた武将だったんだね!

【信長公記にも登場!京での政治実務を担当していた原田直政】

 

原田直政は信長の生涯を描いたかの有名な「信長公記」にも何度も登場しているんだ。

元亀2年(1571年)10月に京で行われた市民への賃付米を行ったのも原田直政だよ。
この賃付米とは、織田家が市民に米を貸す代わりに、その利子を朝廷に献上することによって、朝廷の財政逼迫をサポートしながら経済を回そうとした政策なの。

 

このように原田直政は京都での政治実務を担当していたんだ。
この時期には明智光秀や島田秀満、羽柴秀吉なども京都の政治に関わっていたから、光秀らと協力して仕事をする機会も多かったよ。

 

原田直政は日頃から勤勉で仕事熱心であったため、信長からも信頼されていたと考えられているんだ。
ただの赤母衣衆だった原田直政が、ここまで出世したのは、身分の上下を問わない人付き合いを好んだ信長だからこそだよね。

 

レモン姫
レモン姫
真面目な人だったんだろうな〜

 

【山城、大和国の守護となる】

 

原田直政が戦で功績をあげたという記録はないから、軍事的には馬廻衆の一員だったと言われているよ。
その代わりに、原田直政は政治や外交面での立場が向上し、義昭と信長の間で使者を務めたこともあったんだ。

 

この頃、直政は法隆寺東寺・西寺の対立の解決に尽力もしたんだ。
信長は東寺、西寺双方に担当者を付けて問題解決を図ったと言われており、原田直政は東寺担当の1人だったの。

 

元亀4年(1573年)5月には山城守護に抜粋され、足利義昭が追放直前に立てこもっていた槙島城を任せれたよ。
この時、山城守護という名ではあったものの、原田直政の職権は山城全体ではなく、宇治川以南に限られていたんだ。

 

そのため、原田直政は宇治川以南の国人たちの本領安堵をしており、京都市中の実権はなかったと言われているよ。

ちなみに、この時山城北部については明智光秀が、京都市中の政務は村井貞勝、桂川以西は細川藤孝が支配権を握っていたんだ。
信長は4人の職権が及ぶ範囲を限定することによって、スムーズに政務処理ができるようにしていたと考えられているよ。

 

さらに原田直政は、天正3年2月には大和国の守護も兼務することになるんだ。
原田直政の大和守護就任は、石山本願寺対策の一環であったと言われているよ。

 

忍レモン
忍レモン
たくさんの役職を兼任していたんだね!
足軽レモン
足軽レモン
大忙しだろうね〜!

 

 

【官職を授けられた原田直政】

 

天正3年7月、信長は自分の官位昇進を断って、家臣に官位や賜姓を願い出たの。
この時、原田直政も備中守の官職を授けられたと言われており、「原田備中守」と呼ばれるようになったよ。

 

信長にとっていかに原田直政が重要な家臣であったかがよく分かるよね。
派手な合戦には参加していないため記録上は目立った存在感のない原田直政だけど、日常の政務能力は非常にたけており織田家にとっては必要不可欠な存在だったと言われているよ。

 

将軍レモン
将軍レモン
信長様からも頼れる武将として絶対的な信頼があったんだね!
レモン姫
レモン姫
信長の野望でも原田様を大切にしなくてわ!ですわね!笑

 

【天王寺砦の戦いで戦死】

 

天正4年、信長は石山本願寺への攻撃を本格化させるよ。
原田直政もまた、明智光秀、細川藤孝、荒木村重らと本願寺包囲網の一角に加えられたんだ。
本願寺の南にあった天王寺砦を修復・構築し、そこを拠点として戦うことになるの。

 

本願寺の中国・毛利氏からの補給線を絶ち、本願寺が籠城戦できないようにするために信長は敵拠点の1つであった三津寺の攻略を、原田直政と三好康長に命じたよ。
天正4年5月3日、原田直政は大和・山城衆を率いて三津寺攻撃をスタート。

 

まずは和泉・根来衆を率いていた三好康長が先陣。
これに対して、本願寺軍は1万の兵と、数千もの鉄砲で迎え撃ったよ。

雑賀衆の鉄砲部隊は非常に恐ろしくその攻撃は想定以上に激しかったそう。

その攻撃に耐えきれなくなった三好康長は逃走。

 

続いて原田直政軍が攻撃するものの、激戦の最中に原田直政は討死してしまうんだ。

他の織田方も多くが戦死して、本願寺軍に天王寺砦を包囲されてしまうよ。
その後、天王寺砦に残っていた光秀らが信長に援軍を要請し、信長自らが参戦し、最終的には織田軍が大逆転を収めるの。

 

天王寺の戦い後、信長は原田直政の一族郎党に対して非常に厳しい処置を下したんだ。
原田直政の腹心だった二羽二介や塙孫四郎は罪人として捕らえ、大和国の守護を筒井順慶に命じたよ。

 

そして原田直政や縁者から預かったものを提出させ、彼らに対しては宿を貸すことを禁じるなどの命令を敷いたんだ。
そこまで厳しい仕打ちをした理由は定かではないんだけど、石山本願寺の攻略に手こずったことが原因しているかもね。

 

レモン姫
レモン姫
ありゃりゃ。あれだけ尽力を尽くしてたのに。。。
忍レモン
忍レモン
激しい戦いの中、死んじゃったのに失敗扱いで酷い扱い。。笑
将軍レモン
将軍レモン
織田信長様の八つ当たりに当たったのかな!!プンスカ!!

将軍レモン
将軍レモン
三好康長なんて逃走したのにさ。。。