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2021年1月24日
「麒麟がくる」第39回では、大坂本願寺が信長に対して3度目の兵を挙げたよね。
ここでは天正4年(1576年)に起きた本能寺VS信長の戦い「天王寺砦の戦い(天王寺の戦い)」についてまとめてみよう。
目次
【なぜ天王寺砦の戦いは起きたの?その背景とは?】
天王寺砦の戦いはいつ起きてもおかしくないものだったんだ。
元亀元年(1570年)頃から、信長と石山本願寺の顕如はとても仲が悪く、対立を深めていたよ。
信長と顕如の対立は、元亀元年9月頃から起きていたの。
野田城や福島城の戦いで信長軍が三好三人衆と戦闘中に、本願寺勢力が突如信長軍に襲い掛かってきたんだ。
その後も顕如は、反信長の姿勢を貫いたよ。
顕如が反信長派になった理由は、信長が無理難題を本願寺に何度も突きつけてきたからなんだ。
顕如は当時、信長と対立していた足利義昭方について、浅井氏や朝倉氏、武田信玄らとともに信長包囲網を起こしたよ。
しかし、天王寺砦の戦いの前の本願寺は、浅井氏や朝倉家が滅ぼされ、長島、越前の一向一揆も大敗し、追い詰められた状態だったの。
その最中、天正4年(1576年)2月に安芸の毛利輝元が足利義昭の信長包囲網の呼びかけに賛同し、石山本願寺への武器弾薬、兵糧を送り込むようになったんだ。
毛利輝元の参戦で、本願寺主導者であった顕如は勢いづき、畿内の信徒に動員令を出すよ。
そして5万もの兵を集めたんだ。
【天王寺砦の戦いはどこで起きた?】
天王寺砦の戦いの場所は、現在の大阪市天王寺区生玉寺町月江寺にあり、織田信長が石山本願寺攻めのために作った砦と言われているよ。
天正4年(1576年)4月、大坂で小競り合いがあったという情報を聞いた織田信長はすぐに本願寺攻撃の命令を出すの。
5万もの兵がそろった本願寺に対して、信長は細川藤孝、明智光秀らを摂津方面に出陣させて体制を整えたんだ。
この時の配置は、
・森河内砦(現在の東大阪市):明智光秀
・守口砦(現在の守口市):細川藤孝
・八王子砦:原田直政
・野田砦(尼崎より海を経て砦を構築):荒木村重
だったよ。
三方に分かれて本願寺を包囲するようにしたの。
さらに織田軍は本願寺周辺の刈畠を行って「一般信徒(男女)は赦免するので城を出るように」という立て札を立てたんだ。
今までの、長島や越前の一向一揆とは違う対応で、長島や越前の一向一揆では一般信徒すらも信長は皆殺しにしているの。
しかし、本願寺は西方の海岸線にたくさんの砦を構えていたんだ。
さらに大阪湾への通路も確保していたの。この状態では本願寺が中国の毛利氏や雑賀と連絡を取るのも簡単になってしまうよね。
そこで信長は海上通路を遮断するために本願寺側の水路の確保先であった「三津寺」を攻撃する事を決めたんだ。
天王寺砦に佐久間信盛の嫡男である佐久間信栄と明智光秀を配置させて、三寺砦の攻略は原田直政(塙直政)に命じたよ。
そうして5月3日、原田直政を先陣に「三津寺」に攻撃を仕掛けることになるんだ。
【天王寺砦の戦いで原田直政は討ち死】
天王寺の戦いでの兵力差は織田軍3,000のところ、本願寺軍は1万ほどいたと言われているよ。
5月3日早朝、原田直政(塙直政)と三好康長が三津寺へ攻撃を開始。
果敢に出陣する原田直政隊だったけれど、本願寺勢約1万の軍が楼岸砦から数千もの鉄砲で迎撃してきたんだ。
原田直政隊がこの攻撃を受けて本願寺軍に囲まれ、討ち死にしてしまうの。
さらにこの戦いで、塙安弘、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎なども戦死してしまうよ。
一緒に戦っていた三好康長は鉄砲の攻撃に耐えきれず裏切り、逃亡してしまうんだ。
元々、三好康長は、天王寺砦の戦いの前年に起こった高屋城の戦いで信長方に寝返ったばかりの武将だったの。
【大ピンチに陥る明智光秀】
原田直政ら織田軍を討ちとった本願寺勢はそのままの勢いで、天王寺砦を攻め寄せたんだ。
この時、天王寺砦には明智光秀や佐久間信栄らがいたんだけど、その天王寺砦を包囲するよ。
天王寺砦は堀も整っていないような貧弱な砦だったため、突如攻撃を受けることになった光秀・佐久間軍は、古い畳や、殺した牛馬などを盾にして本願寺の攻撃を防ぐしか方法がなかったの。
光秀は信長にすぐに援軍を要請するものの、その時、信長は40キロも離れた京にいたんだ。
まさに光秀軍は大ピンチの状態だったんだよ。
【信長自らが出陣】
援軍要請の知らせを京で聞いた信長は、すぐに動員令を出して、自らもわずかな手勢で出陣。
あまりにも突然の出陣だったため、お供は100騎ほどしかいなかったと言われているんだ。
5月5日には天王寺砦から8キロ程度の距離にある河内の若江城に到着するよ。
けれど、突然の動員だったため、兵がなかなか集まらなかったそう。
光秀・佐久間軍が、あと2~3日持つかどうかも分からない状況下だったため、信長は5月7日明け方に集まった3,000の兵で、1万5000もの本願寺の大軍へ向けて出陣することを決めたんだ。
5月7日明朝、信長は軍を3段に分けて攻撃をスタート。
この時、
先鋒は佐久間信盛、長岡藤孝、松永久秀
第2段は滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀
第3段は信長と馬廻衆
だったそう。
わずか3,000の兵で突撃した織田軍に対して、本願寺軍は多数の鉄砲で突入を阻止。
織田軍は鉄砲隊に対して突っ込み、敵陣を切り崩して天王寺砦の光秀・佐久間軍と合流するよ。
光秀・佐久間軍と合流した信長軍は、少ない兵の中、積極的な攻撃をしかけて本願寺勢を撃破。
本願寺勢は織田方の勢いに押され、織田軍はその勢いのまま石山本願寺城下の木戸口まで押し戻して追撃をしたんだ。
こうして、約2,700もの敵の首を討ち取ることに成功したよ。
ちなみにこの天王寺砦の戦いで、敵の鉄砲を受けた信長は足を撃たれているんだ。
信長は体を自ら体を張って、家臣・光秀を救ったんだね。
【天王寺砦の戦いのその後】
明智光秀率いる軍が15,000もの本願寺の大軍に囲まれ絶体絶命の大ピンチに陥るものの、信長軍によって見事大逆転での勝利を収めた天王寺砦の戦い。
この天王寺砦の戦いで勝利したことによって、摂津方面(石山本願寺)での優位性は保たれることになり、本願寺討伐がしやすくなったと言われているよ。
一方、本願寺はこの敗戦によって、合戦はできるだけ避けて籠城戦を徹底するようになったんだ。