軍事力や戦国最強と言われた甲斐の大名・武田信玄とは?織田信長や上杉謙信との関係性は?
2020年12月28日織田信長など数々の武将が切り取った香木・蘭奢待は権威の象徴だった?!
2020年12月28日
「麒麟がくる」第37話では、武田信玄は三方ヶ原で徳川・織田連合軍に勝利し、三河侵入に成功。
しかし、そこから京都へ向かうはずだった武田軍は突然引き返してしまうんだ。
実はこの時、武田信玄は病におかされていたの。
結局、武田信玄は織田信長と戦うことなく病気でこの世を去ってしまうんだ。
ここでは武田信玄の病気についてまとめてみよう。
目次
【持病として肺結核を患っていた武田信玄は病弱だった】
武田信玄といえば、戦に強いというイメージがあるよね。
実は、武田信玄は病弱で若い頃から苦しめられていたんだ。
持病として「肺結核」を患っていたことは有名で、何度か吐血したこともあるそう。
武田信玄は大の温泉好きで、山梨県各地には「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地がたくさんあるんだ。
しかし、肺結核のような進行性の病気には、温泉療養はよくないと言われているの
温泉に入り続けたことも体を悪くしてしまった原因の1つなのかもしれないね。
【武田信玄の死因はガン?それとも日本住血吸虫症?】
肺結核を患っていた武田信玄だけど、死因は肺結核ではなかったんだ。
信玄の死因として考えられているのが、ガンか日本住血吸虫症であったと言われているよ。
武田四天王の1人である高坂昌信が残した資料「甲陽軍艦」によると、武田信玄の死因は「胃がん」か「食道がん」だったと記されているんだ。
しかし、近年の研究では武田信玄の死因はガンではなく、日本住血吸虫症だったいう説が有力視されているの。
日本住血吸虫症という病気は現在では聞きなれないよね。
寄生虫によって起こる日本住血吸虫症は、高熱などの症状が出て死に至るそう。
武田信玄の拠点であった甲斐(山梨県)の一部地域で発生していた感染症なんだ。
ちなみに日本住血吸虫症は、20世紀には撲滅している感染症なんだよ。
【自分の死を3年間秘密にするように遺言した信玄】
信玄が亡くなったのは、天正元年(1573年)4月10日のこと。
最期を迎えた地は信濃国伊那の駒場だったそう。
名将であった武田信玄は、その死に際まで両国経営のことを考えていたの。
自分が死んだことが周囲に広まれば他の戦国大名たちが領地を侵攻しにくるだろう…と心配していたいんだ。
そこで、自らの死の直前、信玄の子・勝頼に「3年間、喪を秘せ」と遺言を残したの。
勝頼は信玄の遺言通り、自分が当主としてふるまい、信玄は隠居扱いにしたそう。
しかし、どこからともなく信玄が亡くなったという噂は出てしまうの。
小田原城主・北条氏政が「信玄が死亡した」という噂を聞きつけて、勝頼のもとに使者を送ってきたときには、勝頼は信玄の弟・信廉を影武者に見立てて、ピンチを乗り切ったんだ。
そして3年後に、信玄の死を公表して、葬儀を行ったよ。
【実際には信玄の死は周囲にバレていた】
信玄の死を隠したことによって、甲斐の国は他国からの攻撃を避けることができたと言い伝えられているよ。
しかし実際には、信玄の死に関しては、3年とかからず周囲の大名たちにはバレていたんだ。
実は北条氏政の使者が勝頼のもとを訪れた時、武田側は信玄の弟を影武者に使って騙せたと思っていたんだ。
しかし、小田原へ帰国した使者は、信玄の死を主君である北条氏政に報告していたの。
北条氏政は、信玄の死をすぐに上杉謙信の元へ通報。
最大のライバルであった上杉謙信は、食事中にその知らせを聞き、箸を投げ捨てて「惜しい人を亡くしたものよ」と涙を流しながら呟いたと言われているよ。
また織田信長も信玄の死は知っていたとされていて、毛利輝元への書状の中で、信玄の死を喜んでいた様子が伝えられているんだ。
信長にとって大きな敵であった武田信玄が病気で亡くなったことは、非常にラッキーな出来事であったと言われているよね。
つまり、武田側は3年間信玄の死を隠し通せたと思っていたものの、実際には周囲の戦国大名は情報を入手していたんだ。
北条氏政、上杉謙信、織田信長、徳川家康などは信玄の死を知っていながら、騙されたそぶりをしていたと言われているよ。