室町幕府将軍・足利義昭に仕えながらも、織田信長の家臣としても活躍した両属の身であった明智光秀
2020年12月20日厚藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年12月26日光秀が築いた居城・坂本城は、信長の居城として知られている安土桃山城に匹敵するほど素晴らしいお城であったと言われているんだ。
では実際に、光秀が築いた坂本城はどのようなお城だったんだろう?
ここでは光秀が築いた名城・坂本城の謎に迫ってみよう。
目次
【光秀は坂本城以外にもお城を築いている】
実は明智光秀が建てたとされているお城は坂本城だけではないんだ。
坂本城の他に、亀山城や福知山城もあるんだけど、最初に建てたのが坂本城なんだよ。
光秀は、坂本城主になって以降、丹波国を平定して亀山城の城主にもなるんだけど、同時に坂本城の城主でもあり続けたんだ。
【光秀が坂本に城を建てたのは比叡山焼き討ちの功績があったから】
光秀が初めてお城を建てた場所が坂本だったのは、比叡山延暦寺の焼き討ちが関係しているんだ。
元亀2年(1571年)9月に起こった比叡山延暦寺の焼き討ちでは、光秀は信長家臣の中で一番の功労者となる活躍をしたんだよ。
その功績が認められて、光秀は信長から賜ったのが近江国志賀郡だったんだ。
元亀2年10月には光秀は幕臣としてこれまで仕えていた将軍・足利義昭に別れを告げているんだけど、信長から所領を賜ったことが義昭との決別のきっかけになったのでは?と言われているよ。
ほぼ同時期に坂本城の築城が開始されたの。
坂本城ができる前までは、光秀は森可成亡き後の宇佐山城を居城としていたんだけど、元亀3年(1573年)に坂本城が完成するとほどなくして移ったよ。
ちなみに信長の家臣団の中でも、城持ちになるのがとにかく早かったのが光秀だったんだ。
家臣団の中ではかなり新参者だったんだけど、ものすごい勢いで信長の信頼を勝ち得て、城を持つことを許されたことが良く分かるよね。
ちなみに同じ家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が同じ近江長浜に城を築いたのは、坂本城が完成した1年後の天正元年(1573年)のことだったんだよ。
【安土城に匹敵するほど豪華であった坂本城】
豪華なお城といえば、信長の居城であった安土城を思い浮かべる人は多いはず。
実は、光秀の居城・坂本城は安土城に次ぐ豪華なお城であったと言われているんだ。
宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」では、坂本城のことを安土城に次ぐものであると記しているの。
フロイスは「かの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と坂本城を評価しているよ。
またフロイスは光秀の築城の腕前に関しても高く評価しており「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主である」と記しているんだ。
光秀の性格に関しては、フロイスは酷評しているものが多いんだけど、とりわけお城に関しては高い評価が目立っているんだよ。
【坂本城はどんなお城だった?】
坂本城の城跡は、現在城址の石碑が公園に残るのみで、全て解体されてしまっているんだ。
ただ、当時の記録が残っており、だいたいどんなお城であったかは分かっているんだよ。
実は坂本城には天守があり、安土城に先駆けて築かれたと言われているんだ。
五重以上の巨大な天守が造られたのは安土城が最初なんだけれど、坂本城の天守もまた素晴らしいものであったと伝えられているよ。
天正10年(1582年)の正月に津田宗及らが坂本城の小天守で茶会をしていたという記録があることからも、坂本城には大天守と小天守があったことが分かるね。
また坂本城は琵琶湖に面しているだけではなく、城に湖水を引き入れていた水城であったとされているよ。
光秀の茶の湯の師匠・津田宗及の記録によると坂本城から直接船に乗り込んで、そのまま安土城へ向かうことができたそう。
なんとも凄いよね。
坂本城は1979年に発掘調査が行われ、その調査によって城の正確な位置や構造が明らかになったんだ。
明智秀満が天守に火を放った当時のものとされる焼土層も発見されており、城の縄張りについても明らかになったよ。
坂本城には本丸、二の丸、三の丸などの城郭があったことが分かっているの。
【解体された坂本城はどこで再利用されたの?】
それだけ豪華であった坂本城は、光秀が敗れた後、明智秀満が火をかけて落城し、再建されたんだ。
その後、近くに同じく水城であった大津城が築かれたため、その際に坂本城は廃城になったんだよ。
廃城となった坂本城の解体された資材は、大津城を築城する際に再利用されたと言われているの。
ただその大津城も今や残っていないんだ。
【坂本城の立地は抜群だった?】
坂本城があったとされる場所は、近江国滋賀郡坂本で、現在の滋賀県大津市下阪本3丁目あたりだよ。
現在は阪本城址公園内に石碑が建てられているんだ。
この場所は琵琶湖のほぼ南端に位置していて、南には大津、北には堅田、背後には比叡山という立地になってるの。
さらにお城は琵琶湖に面していて、すぐ後ろに山脈があるため、防衛上非常に有利であったと考えられているよ。
また坂本という場所は、京へ行き来しやすい場所でもあったんだ。
光秀は志賀郡を与えられた後に、京都代官にもなっているため、近江だけではなく京に対しても常に目を向けておく必要があったの。
坂本からは、今道越で今日の東山に位置する粟田口に通じているため、京と行き来しやすい土地だったんだよ。
光秀は坂本城の他、亀山城主にもなっているんだけど、京の都には坂本の方が近く、主君であった信長の居城・安土城にも坂本の方が近かったため、丹波平定後も坂本城を拠点として活動していたんだ。
【琵琶湖近くに数多く建てられた城たち】
琵琶湖に面していた坂本城は、信長の居城・安土城に最も近い城でもあったんだ。
安土城が建てられた のは坂本城築城の4年後のことで、天正4年(1576年)だったの。
信長家臣団のお城は坂本城の他にもあったんだけど、光秀の居城・坂本城が安土城に最も違い場所にあって、湖を船で渡って直接入城できたんだ。
坂本城、安土城の他にも、琵琶湖周辺には長浜城など相次いで築城され、信長が琵琶湖を制することに注力していたことが良く分かるよ。
それほど信長にとって近江という場所は重要な地であったんだ。
とりわけ要衝の地である坂本の地を家臣である光秀に与えたということは、信長が光秀に相当な期待を寄せていたことがうかがえるよね。