平野藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年12月15日明智光秀の居城・坂本城は立地抜群だった?天守ありの豪華なお城・坂本城の謎に迫る
2020年12月20日
「麒麟がくる」第35回では、奉公衆に従属した幕臣扱いのような立場であり、信長と幕府のパイプ役となる微妙な立場の明智光秀が描かれているよね。
ここでは、将軍・足利義昭に仕えながらも、織田家臣としての務めも果たしていた明智光秀の立場についてまとめてみよう。
目次
【明智光秀は室町幕府・足利義昭の幕臣でありながら信長の所領を任されていた?!】
元亀2年(1571年)9月、明智光秀は織田信長から近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)を与えられ、比叡山領の管理を任されることになったよ。
さらに足利義昭や信長の家臣らとともに、京都の支配を担当する任務も引き続き行っていたんだ。
光秀の主な仕事は、
・京の治安維持
・地子銭(税金)の徴収
・朝廷や公家の領地に関する訴訟
などで、足利義昭と織田信長の下で京都周辺の平和維持を担う重要な役割を任されていたんだ。
【両属であったためにトラブルも多かった?】
明智光秀は比叡山や朝廷・公家の権益を自分のものとするようになり、トラブルに見舞われることも多かったんだ。
本来であれば、公家や寺社の紛争を解決するのは、将軍の役割なの。
しかしそれを光秀が行っていたことで、朝廷は足利義昭に苦情を申し入れて、義昭もまた光秀の行動を問題視していたんだ。
この頃の光秀の立ち位置としては、足利幕府の幕臣でありながら、織田家にも仕えて領土を所有して、武将としても働いていたために、非常に苦境であったと言われているよ。
この苦しい状況に嫌気がさしてしまった光秀は、出家をして幕府を去ろうとするんだ。
義昭の側近であった曾我助乗に「お暇をいただいて出家したいので、義昭様の許可を頂けるように取りなしてください」と伝えているんだ。
京都やその周辺で起こる問題を解決するために役割を担っていた光秀の存在が、この時には問題の種となってしまっていたんだよ。
【武将としての頭角を現してくる光秀】
両属として微妙な立ち位置にいた明智光秀は、その一方で信長の命令を受けて近江を転戦して、朝倉氏・浅井氏の連合軍と戦っているんだ。
その戦いでも素晴らしい功績をあげた光秀は、坂本(現在の滋賀県大津市)に新たな城を立てることを信長から許され、居城・坂本城を築城。
琵琶湖畔の諸勢力を味方につけて、信長からもあつい信頼を得るようになるよ。
この頃には、光秀にとって幕臣よりも織田家臣としての方がよい仕事場であったと考えられているよ。
【義昭と信長の関係悪化に伴い、光秀の立場も苦境に…】
義昭と信長の関係は徐々に悪化の一途をたどっていくよ。
そのことによって、両者の間に立つ光秀は苦境に立たされるんだ。
これまで信長は、義昭の施政方針にたびたび注文を付けていて、この信長の行動に義昭は以前から不満をもっていたの。
両者ともに不満を抱えながら関係を続けていたものの、元亀4年(1573年)には信長と義昭は完全に決裂してしまうんだ。
義昭のこうした動きを察知して信長に報告したのは、光秀ではなく、光秀と同じように両者で活動していた細川藤孝だったの。
義昭が反信長派に寝返ろうとしていることを知った信長は、京都の将軍御所を包囲し、義昭と一旦和睦。
一方、光秀は義昭に呼応した敵軍を討伐するために、近江の今堅田や木戸で激戦を繰り広げていたんだ。
信長と義昭の和睦によって一度は京都に平和が戻ったと思ったのも束の間、義昭は京都を出て京都の宇治市にあった槇島城に逃れて、再び信長討伐に乗り出す準備を始めるの。
しかし、細川藤孝と光秀は、将軍・義昭を見限って信長につき、義昭は降伏して河内へ逃れることに。
ついに室町幕府は滅亡して、光秀は信長の家臣として活動していくことになるんだ。
【室町幕府の幕臣たちは織田家の直臣に吸収されることに】
義昭が京都から没落後、室町幕府に仕えた武士たちは所領支配の関係から京都にとどまり、光秀の下に配属されたものもいたんだ。
幕府の政所執事を代々勤めていた伊勢貞興や御牧景重などは、元は幕臣で光秀の臣下になったんだよ。
光秀家臣団が形成され、光秀は武将として徐々に力をつけていくことになるんだ。
義昭に仕えていた山城や近江の武士たちも家臣になり、政治や軍事面で光秀の指揮を受ける存在となり、光秀の軍事力はさらに強化していくよ。
ちなみに光秀の家臣団は、光秀が義昭から信長の元へ移った頃を境に形成されたと言われており、後の丹波攻めでも大活躍することになるの。
【両代官として、武将として力を伸ばしていく光秀】
着実に力をつけていく光秀は、両代官として京都支配を担当することに。
光秀は武将としての才能だけではなく、政治家や行政官としても有能な人物だったんだよ。
永禄12年(1569年)~天正3年(1575年)の5年間で、光秀は京都の支配を担当する「両代官」に就任。
行政や訴訟問題の対応をしていたと言われていて、その能力を発揮していたんだよ。
義昭の家臣として勤めていた際も、光秀は将軍の元に寄せられる訴訟や京都周辺に起こる問題を解決する仕事をしていたよね。
義昭が京都から没落後、信長の元でも光秀は同じ役割を担うことになるんだ。
将軍が不在となったその状況下で、織田信長が足利義昭に替わる新たな天下人として、公家や寺社を保護する役割を引き継いだため、光秀はこのような役回りを得ることになったんだ。
いかに光秀が信長からあつい信頼を得ていたかがよく分かるよね。