悪役としても知られている松永久秀はどんな人物だった?どんな悪事をしたの?
2020年12月7日数珠丸恒次 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年12月7日
前回は松永久秀の悪事についてまとめてみたね。
今回は、信長への謀反について解説していこう。
なぜ松永久秀は2回も信長を裏切ったんだろう?
目次
【信長に従順な松永久秀】
織田信長が足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛することになり、久秀はいち早く信長に近づくことにしたよ。
松永久秀は、茶の名器と言われる「九十九髪茄子」を献上して、信長の心をつかむと、信長は久秀の臣従を許したんだ。
三好三人衆を追放し、畿内を平定して、久秀は大和の支配を任されることになるんだよ。
実は久秀が信長に贈ったのは茶の名器だけではないんだ。
久秀は、信長のご機嫌を取るために、様々な名物と言われた茶器、刀剣などを贈ったと言われているよ。
将軍・義昭は兄・義輝の仇の片割れである松永久秀を罰するように信長に言ったものの、信長はそれをなだめて久秀を幕臣として義昭のそばに仕えさせたんだ。
松永久秀は朝倉・浅井連合軍から挟み撃ちに合った金ヶ崎の戦いにおいても、近隣の土豪を説得して信長を京都に脱出させるという功績をあげているんだよ。
【信長に対する二度の謀反】
松永久秀は、織田信長に二度従い、二度反旗を挙げているんだ。
ここではその二度の謀反についてまとめてみよう。
・1回目の謀反
信長と将軍・足利義昭は次第に政治の主導権を巡って対立するようになってきたの。
そこで義昭は大名に密書を送りつけ、「打倒・信長」を呼び掛けたんだ。
近隣の浅井氏・朝倉氏、三好三人衆、本願寺、武田信玄などが呼応し、信長包囲網を形成。
信長が兵を西にむけて上洛を目指し、三方ヶ原で織田・徳川連合軍を一蹴したんだ。
この結果を知った松永久秀は、信貴山城で信長に反旗を翻したんだよ。
しかし、肝心なところで武田信玄は病死し、武田軍は本国へ撤退。
信長は反対勢力を個別に撃破し、将軍・義昭を京から追放したんだ。
久秀は信長に降伏し、その際にも名物を大量に献上して命乞いをしたそう。
・2回目の謀反
1回目の謀反から数年後、信長は浅井・朝倉軍、三好三人衆を滅ぼし、畿内の脅威を取り除くことへ成功。
しかし、本願寺の勢力や毛利氏など反信長の動きはまだまだあったんだ。
そのような状況で、松永久秀は再び信貴山城に籠城し、反旗を翻すことに。
もちろん結果は大敗。
信長は「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」という茶釜を差し出すことを条件に、久秀の命を助けようとするの。
しかし、久秀はその申し出を断り、平蜘蛛の釜を粉々に砕き、城に火をかけ自害したんだ。
実はこの自害の際に、久秀は平蜘蛛の茶釜に鉄砲の火薬を詰めて火を放って、信貴山城の天守ともども爆発させたという言い伝えがあるんだ。
実際のところその真相は定かではないよ。
【危機察知能力に優れていた松永久秀】
松永久秀は行政官僚や軍事指揮官として非常に有能だったんだ。
そのため、異例の出世を遂げることになるけれど、そうなったことで周囲の嫉妬を買い、周りからは悪く言われることも多かったの。
特に久秀は三好一族ではなく、外様だったため風当たりは強かったと言われているよ。
そして、久秀は信長の勢力が伸びてくることをいち早く察知して、信長の勢力が危機に瀕したときには信長から寝返るというように危機察知能力に優れていたんだ。
目先が利きすぎたため、松永久秀はそれを過信しすぎた部分もあったんだ。
また機敏すぎる行動は、江戸時代に入ってから厳しく批判されるようになるんだよ。
そのため、松永久秀=ヒール役、悪役というイメージが根付いてしまったの。