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2020年11月11日信長・家康軍VS朝倉・浅井軍の「姉川の戦い」とはどんな戦いだったの?
2020年11月11日
「麒麟がくる」の第30回では、ついに織田信長が越前の朝倉義景を攻めることを決めたね。
ここでは織田信長と朝倉義景の戦いについてまとめてみよう。
目次
【越前朝倉氏の当主の中で最も出世したのは義景だった?!】
義景の出自は良く分かっていないんだけど、歴代の越前朝倉氏当主の中でもっとも出世したと言われているんだ。
越前朝倉氏の当主は代々、三等官の孫右衛門尉か弾正左衛門尉だったんだけど、義景は一等官まで出世したの。
この頃には、旧勢力の守護・斯波氏や守護代・甲斐氏の残党は追放されていて、越前国は越前朝倉氏の支配下にあったんだよ。
【義景と足利義昭の関わりとは?】
義景が若狭国への介入など他の国と戦っている間に、13代将軍義輝は三好三人衆に殺害されてしまうんだ。
そんな中で、奈良の興福寺にいた弟・義昭だけは危機を回避できていたの。
室町幕府を献身的に支えてきた越前朝倉氏は、この事態をほっとけず義昭の脱出を手伝うことになるんだ。
【朝倉義景と織田信長の激戦】
義景がなかなか上洛を決断しない間に、尾張国の信長は着実に勢力を拡大していたの。
そこで義昭は、義景から乗り換え信長の拠点となった岐阜に移ることを決意。
義景は、信長の上洛を困難であるとのんきに考えていたんだ。
しかし、信長は六角氏を撃破し、三好氏や松永氏の勢力を追い払いついには上洛に成功。
そして義昭は征夷大将軍に任じられたんだよ。
室町幕府と朝廷の信頼を獲得した信長は、朝倉義景に上洛を命じたんだ。
この命令に関しては、義景は一乗谷ですぐに同名衆による会議が開かれたの。
上洛したら信長に他国を攻める手先としていいように使われるだけだ…と思った義景は上洛の命令を無視してしまうよ。
すると、元亀元(1570年)4月に、3万もの兵を引き連れた信長は逆賊討伐の大義名分を持って越前国に攻めよってきたんだ。
この攻めによって、朝倉景恒の金ケ崎城が落とされ、さらに一乗谷目前まで迫るという窮地に立たされてしまうよ。
もうだめかと想ったときに、戦局が一転。
北近江国の浅井長政が、織田信長を裏切り、その背後を襲い掛かったんだ。
この時に、すぐに義景が追撃していれば信長を負かすことができたかもしれないの。
けれど、実際には信長が退却して10日後も経ってから、景鏡の軍勢2万を北近江に向かわせたんだ。
遅すぎる追撃で、何の成果もあげないまま、引き返してくることになるよ。
この時、信長は、命からがら京都に戻っていたんだ。
その後1570年6月28日には織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が姉川で刃を交えた「姉川の戦い」が起こったよ。
この姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が勝利し、朝倉・浅井連合軍は多くの支城を失うことになったの。
姉川の戦いの後に起こった「志賀の陣」では、比叡山に立てこもる朝倉・浅井氏と織田軍で戦闘が起こったんだ。
朝倉氏と織田氏の間では小規模な戦闘がその後もだらだらと続き、義昭が坂本まで下向して和睦調停を行うことになるの。
さらに義景は、本願寺の顕如とも和睦を結んだんだよ。
本願寺との戦闘がなくなった朝倉氏は、浅井氏らとともに織田の城を攻撃するものの、敗北。
信長は朝倉氏や浅井氏の残党をかくまったとして延暦寺を焼き討ちにして見せしめにしたんだよ。
1573年には信長は朝倉討伐のために挙兵して、浅井に小谷城を包囲して救援にきた朝倉軍を信長自らが撃破したの。
最後は信長の命を受けた丹羽長秀によって朝倉義景は殺害されてしまうんだ。