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2020年10月11日
「麒麟がくる」第27回では堺の豪商であり茶人でもある今井宗久が登場するね。
今回は堺の豪商にして当代髄一の茶人の1人である、陣内孝則さん演じる今井宗久についてまとめてみよう。
目次
【今井宗久ってどんな人物だった?】
「麒麟がくる」第27回に登場する今井宗久は、駒の丸薬「芳仁丸」のスポンサーになったことから光秀と知己を得ることになるよ。
陣内孝則さん演じる今井宗久はどんな人物だったんだろう。
今井宗久は、日本で最初の武器商人として知られているよ。
永正17年(1520年)に生まれた今井宗久は、青年時代は大和国本願寺の寺内町で商売を始めたと言われているんだ。
立身出世を志して、南蛮貿易で活気があふれていた堺に出てきた今井宗久は、納屋宗次宅に身を寄せて商人としての修行を重ねるんだ。
この時に、商人としての教養を身に着けるために、豪商で茶人であった武野紹鷗に茶の湯を学んだと言われているよ。
この他に同門としては、千利休や津田宗及などもいたけど、宗久はとりわけ武野紹鷗に気に入られ娘婿にもなるんだ。
【鉄砲の時代を予測した今井宗久】
商人としての実力がついてきた今井宗久は、納屋宗次から独立して薬種業をスタートしたんだ。
今井宗久は、機を見るのに敏感だったと言われており、鉄砲の時代も予測したそう。
天文17年(1548年)には火薬の原料である硝石を独占的に買い占め、天文21年(1552年)には河内鋳物師を集めて鉄砲の生産に乗り出すことに。
今井宗久は高性能の火縄銃を生産して戦国武将の注目を集めるたんだよ。
【人脈が広かった今井宗久は会合衆(えごうしゅう)の一員】
今井宗久は、商品としてだけではなく、茶会を通じて武将や堺の豪商たちとの人脈を広めていったんだ。
そして、会合衆(えごうしゅう)に仲間入りを果たしたんだよ。
会合衆(えごうしゅう)とは、堺を統治・運営していた豪商たちなんだ。
その当時の堺は、南蛮貿易や天保の生産、売買で経済的に大きく発展していたの。
世界的に見ても有数の商業都市として栄えていたそう。
その莫大な資金力で、町の周囲を壕(ごう)で囲って、牢人に警護させるなどして、大名にも負けない軍事力を保持していたんだ。
莫大な軍事力を持っていた堺は独自の自治を可能としていたんだよ。
その堺を仕切っていた自治組織である会合衆(えごうしゅう)に加入していたということは、今井宗久がどれほどの力があったか良く分かるよね。
堺は経済的だけではなく、文化的にも先進的な側面を持っていて、堺の商人たちの間で盛んに行われていた「茶湯」は政治的な打ち合わせの場としても広く利用されていたんだ。
今井宗久は千利休、津田宗及と「茶湯の天下三宗匠」とも言われているんだよ。
【今井宗久は、織田信長が最も信頼していた茶人】
師匠である武野紹鷗が弘治元年(1555年)に53歳で亡くなると、武野紹鷗の長男がまだ幼少だったため、娘婿であった宗久が後見人となるんだ。
後見人となった今井宗久は武野家の財産管理を任されることになるんだよ。
この当時天下を狙っていた織田信長が上洛すると、宗久は信長に取り入るために茶器の名品「松島の茶壺」や「紹鷗茄子」などを献上。
永禄12年(1569年)に信長が堺の豪商たちに2万貫の戦費を要求した際には、宗久は会合衆たちを説得してその戦費を支払ったそう。
この功績が認められ宗久は信長からの信頼を勝ち取り、堺五箇庄の代官に任命されるんだ。
宗久は信長の庇護のもとで、、塩魚や干物を扱う商人組合である「塩合物座」の権利や、淀川の通行船の関税免除、生野銀山の開発など特権を次々と得ていくことになるよ。
そして政商としてのし上がっていったんだ。
鉄砲の大量生産・販売はもちろん、南蛮貿易にも進出して、火薬の原料となる硝石、鉛の調達など統合軍事産業の事業家として力を発揮し、巨万の富を築いたよ。
今井宗久は信長の天下統一を支えた1人と言っても過言ではないんだ。
【豊臣秀吉時代になると主役の座から退く…】
信長が光秀によって討たれた「本能寺の変」後、天下統一を果たした豊臣秀吉の時代に代わると、茶の湯の世界も今井宗久から千利休が牽引するようになるの。
宗久は静かに主役の座を降り、文禄2年(1593年)に73年で生涯を終えるよ。