信長は家康を宴に呼んだ時に、光秀に食事の献立を考えさせたって本当なの?!
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2020年9月24日
織田信長が本能寺の変で討たれた後に、天下統一を果たしたのは信長の家臣であった豊臣秀吉だよね。
本能寺の変を起こした大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でもある明智光秀と豊臣秀吉は、お互い信長の家臣であり、同僚そしてライバルでもあったんだ。
今回は、明智光秀と豊臣秀吉の関係性についてまとめてみよう。
目次
【織田信長が最も評価していた家臣は明智光秀だった?】
明智光秀は、本能寺の変で、主君である織田信長を討ったというイメージから、ストレスを抱えて織田家の重臣として働いていたのでは?というイメージを持っている人が多いはず。
しかし、実際には譜代の家臣ではなかった、途中入社の光秀を、信長はとても高く評価していたんだよ。
同じ家臣であった豊臣秀吉(羽柴秀吉)よりも、明智光秀のことを、信頼して極めて高く評価していたとも言われているの。
信長が、ある領地を統治する「城主」として認めた家臣は、明智光秀が初めてだったんだ。
光秀は、近江国(現在の滋賀県)にある坂本城の城主になったんだよ。
【常に明智光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)をリードしていた?!】
明智光秀と羽柴秀吉は、ともに信長の家臣であり、出世争いにおいてはライバルだったんだ。
この出世争いでも、常に光秀が秀吉を一歩リードしていたのでは?と言われているよ。
信長に仕え始めた頃、光秀は将軍・足利義昭に仕える幕臣でもあったんだ。
義昭の下では、格上の幕臣である細川藤孝の存在がいたものの、藤孝が織田家に仕えるようになると、主君である信長は、細川藤孝を光秀の組下につけたそう。
それほど、信長は光秀のことを買っていたんだよ。
武将としての戦攻はもちろんのこと、困難な京での統治をやってのけた光秀は文官としても優れた才能があり、信長にとっては得難い人材であったと言えるの。
【光秀と秀吉がともに信長に仕えていた期間はどれくらいなの?】
光秀は朝倉義景につかえ、彼を頼ってきた足利義昭を信長に引き合わせる役目を担い、そこから織田家、足利家の臣下となったよ。
1569年には、秀吉や丹羽長秀らと京都の政務を任されていることから、1568年頃には信長に仕えていたのでは?と考えられているんだ。
一方、秀吉は1554年頃から、小者として信長に仕えていたことが分かっているよ。
本能寺の変が起きたのが1582年だから、2人が臣下として一緒に仕えた時間は13年ほどはあったと言われているんだ。
【光秀優位だった状況が一変したのはいつから?】
光秀が信長に仕えたころには、長く使えていた秀吉よりも、光秀の方が信長からの信頼を得ていたんだ。
光秀は、将軍となる人物をサポートできるほどの能力があり、信長もそれを見込んで家臣にしたので、光秀のことを極めて高く評価していたの。
秀吉よりも光秀優位の状況が一変して、2人の立場が逆転したのは中国地方の征伐戦が起こったころからと言われているよ。
このころ、秀吉の存在感が急激に増すことになるんだ。
秀吉は兵糧攻めによる三木合戦や、兵糧を買い占めて相手を飢餓状態に追い込んだ鳥取の飢え殺し、高松城の水攻めなど壮絶な戦いを何度も展開。
毛利氏を中心とした中国地方の勢力をどんどん叩いていったんだ。
この秀吉のすさまじい戦いぶりで、信長の秀吉に対する評価が一気に急上昇したと言われているの。
秀吉の評価が高くなったころ、後一息で毛利氏を叩き落とせるところまで来ていたんだ。
秀吉は、信長に援軍を求めるんだけど、信長は先鋒隊としてまずは光秀に行くように命じたそう。
信長にこう命じられた光秀のプライドはひどく傷ついた…と言う説があるんだよ。
【実際には光秀と秀吉はどのような関係だったの?】
信長の家臣という同じ立場であった、明智光秀と羽柴秀吉は互いにどんな関係だったんだろう?
光秀と秀吉の関係はライバル同士。
同僚でありながら、競い合った関係なので、友人というよりはライバルという感じが強かったのではと言われているよ。
ドラマなどでは、光秀と秀吉は友人と表現されることもあるけれど、実際には険悪な仲だったのでは?と考えられているの。
実際、2人が親しい付き合いであったという記録はなく、同僚としての付き合いはあったとしても、秀吉と前田利家のようにプライベートも仲良くあった関係ではなかったと想像できるよ。
秀吉よりも後から来た明智光秀が信長に高く評価されているわけだから、長く信長に仕えてきた秀吉からすると面白くなったはず。
また、光秀も周囲の心をつかんでいく秀吉に脅威を感じていたかもしれないね。