桶狭間の前哨戦となる大高城への兵糧入れを行ったのは後の徳川家康
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2020年9月12日
「麒麟がくる」の第20回では、今川氏が尾張に向かって大軍を率いて侵攻していく姿が描かれているよね。
その時に先鋒となったのは若き日の徳川家康である松平元康だよ。
では、松平元康は、織田信長 VS 今川義元の戦いとして有名な「桶狭間の戦い」の際にはどうしていたんだろう?
ここでは桶狭間の戦い中、その後の松平元康の動きについてまとめてみよう。
目次
【松平元康は桶狭間の戦い中は、いったい何をしていたの?】
今川軍の尾張への侵攻時に先鋒となった元康だったけれど、桶狭間の戦い中はいったい何をしていたんだろう?
永禄3年(1560年)5月19日早朝に、今川義元本隊は西に向かって出発し、今川軍の一斉攻撃を命じたよ。
ここから桶狭間の戦いは始まったんだ。
元康は、作戦通りに、早期に佐久間盛重の守備する丸根砦を攻めたよ。
苦戦しながら何とか丸根砦を陥落させて、鷲津砦も朝比奈泰朝の攻撃によって陥落させるんだ。
この知らせを聞いた今川義元は戦勝気分に酔いしれていたと「信長公記」にも記されているよ。
元康隊はその後、義元の命令で鵜殿長照と交替して、大高城の守備にまわることになったよ。
元康が守備に回るように命じられたのは、前日から大高城の兵糧入れで不眠不休で働いていたから。
また丸根砦攻めで功を立てたことも関係していたそう。
元康は大高城でゆっくりと休息をとっていたよ。
義元本隊5000もの兵たちが勝利して帰ってくるだろうと、迎える準備をしていたものの、一行に義元本隊は戻ってこなかったんだ。
そのころ、義元軍は午後2時頃には織田方の奇襲を受けて、討ち死にしてしまったんだよ。
つまり、元康は大高城の守備に回っていたことで、命拾いをしたんだ。
もしも、元康が先鋒を務めて、戦っていたら義元とともに討ち死にしていた可能性があるよね。
そうすると歴史がすべて変わっていたことになるんだ。
【10年ぶりに岡崎城へ帰還した元康】
今川義元の死によって、主君を討たれた今川軍はそれぞれちりじりになって退去を開始。
実際元康のところへ、義元討死の報が届いたのは夕刻になってからと言われているんだ。
叔父の水野信元の使者・浅井六之助は、元康に「すぐに大高城を出るように」と告げてきたそう。
けれど元康は、叔父といえど敵の織田方であるため信用せず、今川義元の死の確証を得るまでは城内に留まっていたんだって。
実際に義元の死を確認すると、元康は軍を引き上げて岡崎の大樹寺へと向かうことに。
その道中、織田方の兵や落ち武者狩りなどに遭遇するものの、先導してくれた叔父の水野信元の使者・浅井六之助が名前を名乗り上げてくれたから襲撃されることもなかったんだ。
その日の深夜には大樹寺に入ることに成功したよ。
元康は大樹寺のすぐ近くにある岡崎城への帰還をもくろんでいて、5月23日には岡崎城入城を果たしたよ。
実に10年ぶりの岡崎城の帰還であった元康は、当時19歳。
6歳のころに織田方に、8歳のころに今川方に人質となっていた元康の14年にも及ぶ人質人生が幕を閉じたんだよ。
【織田信長との和解はいつ?】
今川勢が岡崎城を捨てて駿河へ退去したため、元康は岡崎城へ入城したよ。
この岡崎城を拠点として松平一族・家臣の再結集を図り、永禄3年~4年にかけて西三河を、自信の勢力下に置いたんだ。
元康は桶狭間の戦い後も、今川方として織田方との抗争を続けていて、義元の嫡男氏真へ弔い合戦を進言したとも言われているの。
しかし、永禄4年には元康は氏真を見限って、信長と和解し同盟を結ぶことになるよ。