お城の城門とは?役割や構造は意外に複雑だった!?
2020年8月30日桶狭間で松平元康(のちの徳川家康)が討ち死しなかったのはなぜ?!その理由に迫る!
2020年9月12日
8月30日から「麒麟がくる」の放送も再開されてどんどん盛り上げりを見せているよね。
第20回では駿河の今川氏が再び尾張への侵攻を開始したんだ。
かつての人質で成人した松平元康(のちの徳川家康)が先鋒を任されていたよね。
松平元康は今川氏の命令を受け、大高城に兵糧を無事に運び入れるという任務を果たしたんだよ。
今回は、松平元康が行った大高城の兵糧入れについてまとめてみよう。
目次
【今川軍は25000もの軍勢を率いて尾張へ進出】
永禄3年(1560年)に、駿河の今川義元はさらに勢いを強めたよ。
そこで今川氏は隣国の遠江・三河国を支配下に置いて、25000もの軍勢を率いて尾張への進出を始めたんだ。
この時、織田軍はわずか3000あまりの軍勢だったそう。
今川氏は本隊の兵とともに、義元自らが三河国の岡崎城に入ったよ。
この際に先鋒を任されたのが風間俊介さん演じる松平元康。
松平元康は、織田方・丸根砦の横を通り抜けて大高城への入城に成功したんだ。
【なぜ松平元康が大高城での兵糧入れを任されたの?】
桶狭間の前哨戦とも言われる大高城兵糧入れは1560年に行ったよ。
大高城兵糧入れは、今川方に属した松平元康が、今川方の拠点・大高城に兵糧を無事に運んだ任務のことを言うんだ。
大高城は敵である織田陣営に深く入り込んでいて、今川方にとっては最前線だったため兵糧入れはとても危険な行為だったんだ。
1560年5月10日、今川軍が駿府から桶狭間に向かって出陣すると、元康は1000余りの軍勢を率いて先鋒を務めることになるよ。
ではなぜ元康が先鋒を命じられたのだろう?
それは元康が三河国の将であり、松平氏の拠点の岡崎城も尾張に近かったからなんだ。
また、元康はもともと人質で今川家中での立場が弱かったということも先鋒を命じられた理由と言えるだろうね。
だからこそ危険な任務となる、大高城の兵糧入れも任されることになったんだ。
【元康は丸根砦攻めも任されることに…】
一方で、今川義元本隊は5月12日に時間差で大軍勢で駿府を出発。
桶狭間合戦の前日である5月18日には沓掛城に入って軍議を開いたんだよ。
この際に元康は先鋒として、丸根砦攻めをまかされることになったんだ。
丸根砦は織田信長によって1559年に鷲津砦とともに築かれた砦だったんだ。
この丸根砦には今川氏の尾張国侵攻の阻止や大高城と鳴海城の間を遮断するなどの役割があったと言われているよ。
丸根砦は、信長家臣の佐久間大学盛重が守備していたんだ。
【無事に任務をやり終えた元康】
桶狭間の戦いの前日に行われた軍議では、元康が丸根砦攻めと同時に、鵜殿長照の守る大高城へ兵糧を運ぶという任務も命じられたんだよ。
さっきも話した通り、大高城があった場所は、熱田にも近くて、織田陣営に深く入り込んだ、今川方最前線の拠点だったの。
そんな場所に兵糧を入れるのは至難の業であり、松平元康の家臣の中には、今川の加勢を求める声もあったそう。
しかし元康は家臣たちの意見も退け、軍議が行われた当時、夜の間に兵糧入れを無事にやり遂げるよ。
この事に関しては信長後記や神君御年譜にも記されているんだ。
この決死の大高城の兵糧入れに関しては、その後も後世に語り継がれる武勇伝となっているんだよ。
ただ大高城の兵糧入れが行われれた時期はいくつかの説があり、はっきりとは分かっていないの。
「信長公記」「甫庵信長記」「松平記」「総見記」では永禄3年(1560年)説なんだけど、
「家忠日記増補」「武徳大成記」「落穂集」では永禄2年(1559年)説となっているし、永禄元年(1558年)説や、弘治3年(1557年)説などもあるんだよ。
信憑性が高いのは、永禄2年(1559年)説と永禄3年説と言われているんだ。