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第15代将軍・足利義昭の兄、第13代将軍・足利義輝は剣豪として知られている?信長との関係性はあったの?

足利義輝 PD from wikipedia

「麒麟がくる」第19回では、斎藤道三の死後2年が経過し、将軍・足利義輝が三好長慶と和睦して、5年ぶりに京へ戻ってきた場面が描かれているね。

今回は、将軍・足利義輝と織田信長の関係性についてまとめてみよう。

 

【義輝が京へ戻ったときの当時の状況とは?】

 

永禄元年(1558年)に、将軍・足利義輝が京に戻ったことで、幕府は動き出すよ。
しかし、三好長慶の力は強く、幕府の実権を握っていたのは長慶だったんだ。

 

義輝が留守の間に、京都で起こっていた色々な争いをおだやかに収めるために、義輝は諸大名に上洛を求めるよ。
けれど、幕府の権威はほとんどなくなっていたから、上洛に応じた大名はあまり多くはなかったんだ。

将軍レモン
将軍レモン
権威がないと周りもついてこないのだ。。。とほほ。。

【上洛した信長を「相伴衆」にすることを提案した義輝】

 

上洛した信長は、将軍・義輝に、尾張を攻めようとしている今川義元の兵を引かせてほしいと願い出たよ。
そこで、義輝は信長に「左京大夫」を与えることを提案したの。

この左京大夫は義元の官職「治部大輔」よりも上の身分だったんだ。
それでも今川氏の兵が引かなければ、将軍家の「相伴衆」になることを提案したの。

 

相伴衆とは、室町幕府が定めた身分の中で、将軍家の連れとして宴席などに同伴が許された者のこと。



この相伴衆になれるのは高い家柄の者に限られていたから、幕府のナンバー2の身分として有名な「管領職」に次ぐほどの高い身分として知られていたんだ。
それほどまでに高い身分を、義輝は信長に与えようとしたんだよ。

忍レモン
忍レモン
なんとしてでも信長を味方につけておきたかったんだろうね〜

足利義輝 PD from wikipedia

【足利義輝はどのような将軍だった?】

 

足利義輝は剣豪将軍として知られていて、宣教師のルイス・フロイスが書いた「フロイス日本史」によると、義輝は「とても武勇に優れていて、勇気ある人だった」と書かれているんだ。

 

実際に義輝は、剣豪として有名な塚原卜伝から、剣の指導を受けた直弟子の1人としても知られているよ。
義輝が最期を迎えた「永禄の変」では、義輝は屋敷に押し寄せてきた三好軍の兵を自ら迎え撃って、薙刀を手に応戦したと言われているの。

 

この時、義輝は薙刀以外にも畳に数十本もの刀を刺して戦ったとされていて、刃がかけると新しい刀を持って、1人でたくさんの敵を討ち取ったという武勇伝が残っているよ。
けれど、長い戦いで体力がなくなり、最後は転倒したところを、ふすまを持った敵兵に抑えられて、その上から何本もの槍で刺されて殺されたそう。

義輝は最後まで将軍の権威復活に尽力した将軍で、心半ばで最期を終えてしまうんだ。

将軍レモン
将軍レモン
男らしい、武士らしい将軍様だったんだね

【義輝の死後、信長の上洛】

 

義輝の死によって将軍の権威は再び落ちてしまって、今度は三好三人衆と三好義継・松永久秀の間で権力闘争が起こるんだ。
この混乱に目をつけたのが、信長だったの。

 

信長は義輝の実弟で唯一生き残った足利義昭を保護して、上洛の大義名分を得ることに成功。
足利義昭も兄である義輝と同じように将軍の権威復活を目標としていたんだ。

 

そして永禄11年(1568年)に信長は義昭とともに上洛を開始。
この時、畿内は信長に協力的勢力VS非協力的勢力で分かれいていたんだ。

 

信長は強力的勢力である松永久秀らの協力のもと、義昭を第15代将軍に就任させるの。
これ以降、信長は義昭を利用して実権を握っていくことになるよ。
元亀4年(1573年)には義昭が信長に追放されたことで室町幕府は滅亡し、信長の天下統一が始まるの。

 

歴史を振り返ってみると、足利義輝と信長は直接的な関係はあまりないことが分かるね。
けれど義輝の死後、義昭を将軍に就任させ、義昭を利用して天下を取っていくから信長にとっては必要不可欠な人物であったと言えるね。

レモン姫
レモン姫
結果的には足利家と上手く立ち回った信長の一人勝ち!というイメージだわね!