斎藤道三はなぜ出家した?道三の最後の戦いとなる息子・高政との戦いとは?
2020年8月19日越前の国に小京都を築いた朝倉義景はどんな人物だったの?
2020年8月24日
「麒麟がくる」第17回にも登場する朝倉義景。
明智光秀は、信長の家臣になる以前に朝倉氏に仕えていたとされているんだ。
しかし、実際には本当にそのような関係性だったのか、謎も残っているよ。
ここでは明智光秀の朝倉義景の関係性についてまとめてみよう。
目次
【美濃を追われて越前では何をしていた?】
明智光秀に関してはその生涯で、分かっていない部分が非常に多いという話は何度もしているよね。
光秀が生国の美濃を離れて、越前に向かったのは弘治2年(1556年)に起こった「長良川の戦い」が原因と言われているよ。
長良川の戦いでは、斎藤道三と息子の義龍(高政)が争って、最終的には光秀の主君であった道三が敗死。
さらに光秀の居城であった明智城が、義龍の軍政によって攻められて落城してしまうんだ。
光秀は義龍軍から敵視されていたため、美濃にはいられなくなって越前に逃げ込んだ…と言われているよ。
越前の戦国大名・朝倉氏と美濃の守護だった土岐氏は婚姻関係であり、軍事技術の交流もあったと言われているから敵対していない隣国の越前に向かったんだよ。
美濃から越前に逃げ込んだ後の光秀に関しては不明な部分が多く「謎の10年間」を過ごしたと言われているの。
「明智軍記」には光秀が朝倉義景から500貫の知行を与えられ、鉄砲寄子百人を配下に置いたと書かれているよ。
しかし、一乗谷に光秀の屋敷跡が見つかっていないから、それほど厚遇されていたとは考えにくいんだ。
またある記録では時宗の称念寺の門前に10年間住んでいたと書かれているよ。
もしも称念寺の門前で暮らしていたとすると、一乗谷からは遠いため、光秀が朝倉氏に仕えていたとは考えにくいんだ。
【本当のところはわかっていない、光秀の謎の10年間】
朝倉義景に仕えていたとも言われている光秀だけど、越前に逃げ込んだ後の10年間、何をしていたのかははっきりと分かっていないんだ。
称念寺の門前に暮らしていたという記録を本当だと仮定すると、寺子屋の師匠のようなことをしていたとも考えられるよ。
実は、越前の敦賀で、弘治元年(1555年)に旅の僧を庵に住まわせて、子供たちに文字を教えさせたという記録が残っているんだ。
このことからも、美濃から落ち延びてきた光秀に、旅の僧と同じように、子供たちに勉学を教えさせていた…とも考えられるよ。
ただ、その後、朝倉氏に仕えていたのは事実で、門前前に10年程度住んでいた…と仮定すると、士官の時期は永禄9年(1566)年前後となるでしょう。
【明智光秀が朝倉義景の家臣だったと言われる根拠はいくつかある?】
明智光秀が朝倉義景の家臣だったという根拠はいくつかあるんだ。
それぞれまとめてみよう。
1、太閤記
「太閤記」によると、光秀は美濃を追われた後、加賀で流浪の身であったそう。
光秀が加賀で、朝倉家の家臣・朝倉景行と一向一揆の戦を見た際に、「奇襲を仕掛けてくる」と見抜いて景行に進言したんだ。
この功績によって、光秀は朝倉義景から感謝状をもらった・・とも言われているんだよ。
2、明智軍記
明智軍記によると、光秀は明智城落城城後に、諸国を巡り歩いた果てに、朝倉義景につかえて500貫の知行を与えられたんだ。
また義景の所望で、光秀は的に鉄砲で100発100中当てるという腕前を見せたともいわれているよ。
3、細川家記
細川家記には、明智城で光秀の父が亡くなり、光秀は逃れて朝倉義景につかえて500貫の地を与えられたと記されているよ。