なぜ斎藤義龍は父・道三を討ったの?!父だけでなく弟たちも討った義龍の出生の秘密
2020年7月15日織田信長と内輪もめしていた織田彦五郎とはどんな人物なの?
2020年7月23日
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀ってどんな顔だったか知ってる?
実は今、光秀の肖像画の原本展示が福知山ミュージアムで行われているんだよ。
ここでは光秀の肖像画についてまとめてみよう。
目次
【明智光秀の肖像画は1つしかない?】
明智光秀を描かれたとされる肖像画は、現存するものでは1点しかないんだ。
その肖像画以外は、光秀の姿を記録した絵は残っていないそう。
明智光秀の肖像画は大阪府岸和田市にある本徳寺に所蔵してあり、時々期間限定で原本展示がされるんだよ。
本徳寺には位牌があり、その位牌には「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれていて、肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書かれているんだ。
「輝」という字には「光」がつき、「琇」という字には「秀」がつくよね。
どちらにも「光秀」の文字が隠れていることから、その絵が光秀の肖像画である…と言われるようになったんだって。
ちょっと曖昧な感じもするよね。
この光秀の肖像画は京都・妙心寺の僧侶である南国梵珪の画賛が記されていて、「慶長18年(1613)6月6日」とあるから、一説による光秀の33回忌に冥福を祈る目的で制作されたのでは?とも言われているよ。
また、肖像画を描かせたのが光秀の息子・光慶であるという説もあるため、本当のところは闇の中なんだ。
肖像画の中の光秀は、烏帽子に直垂姿で扇子を持って座っている姿が描かれているの。
【光秀の肖像画が所蔵してある本徳寺とは?】
明智光秀の肖像画が所蔵してある本徳寺は、明智氏と密接なつながりがあったお寺として有名だよ。
大阪府岸和田市にある本徳寺は、臨済宗のお寺で、京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺なんだ。
本徳治の開祖は南国梵珪(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶だよ。
実は、この南国梵珪は光秀の遺子・明智光慶だともいわれているんだ。
光慶は複数ある明智氏の系図の中でも、「明智軍記」や「鈴木叢書」所収の明智系図にのみ登場しますが、光秀と連歌会に名を連ねていることが記録に残っているので、実在した人物ではあると言われているの。
ちなみに光慶は、山崎の戦いで光秀が敗死した天正10年(1582年)6月13日亀山城で病死したと言われているんだ。
父親と同じ日に死に、しかもその理由が病死とは偶然すぎるよね。
自害や討ち死した可能性もあるんだけど、落ち延びて生きていたという可能性もあるから、光慶=南国梵珪という説もあながち間違っていないのかもしれないね。
【本徳寺のある岸和田市で伝えられる昔話】
本徳寺がある大阪府岸和田市では、光秀に関する伝説が残っているそう。
本徳寺を開いた南国和尚は明智光秀の息子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ち延びて京都の妙心寺で僧侶になったんだ。
その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養したの。
この海雲寺を岸和田に移転したのが現在の本徳寺だそう。
昔からこのような言い伝えが岸和田市では言われていたんだって。
【期間限定の光秀肖像画の原本展示に行ってみよう】
明智光秀の肖像画はいつでも見れるわけではないんだ。
本徳寺でも常設展示しているわけではなく、期間限定で光秀のゆかりの場所で展示されることが多いよ。
京都府福知山にある福知山光秀ミュージアムでは、肖像画原本の特別展示が7月21日からスタートしたんだ。
ミュージアムには肖像画の原本展示だけではなく、市内外の光秀に関する重要資料の原本64点も10期に分けて展示しているんだよ。
光秀ファンや、「麒麟がくる」を見て光秀に興味を持った人はぜひチェックしてみてね。