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角牟礼城

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角牟礼城は大分県玖珠郡の角埋山にあった山城です。
角牟礼城は弘安年間(1278~1288年)に森朝通によって、豊後国から豊前国に抜ける交通の要衝に位置し天然の要害である角埋山に築城されました。

その後、戦国時代には堅固に補強され、島津義弘による豊後侵攻の際にも、玖珠郡衆が籠城したが、島津軍の攻撃にも落城することはありませんでした。
このことから難攻不落の城として名を高めたと言われています。

角牟礼城は 毛利高政によって中世の山城から石垣や櫓門を持つ近世の城郭に作り変えられたとされており、その遺構からは中世から近世の城郭への移行の様子をうかがえます。
山頂から本丸、二の丸、三の丸と、配置され、伝搦手門跡には穴太積みと呼ばれる野面積みの石垣が残っています。

 

写真提供

wikipedia (PD, CC – 著作権名は画像に記載)

〒879-4404 大分県玖珠郡玖珠町 森

 

角牟礼城は当時の最先端の築城儀技術が生かされた山城であったと言われています。
二の丸周辺には当時屈指の石工集団として知られていた穴太衆による穴太積みが残っており、強度や安定性の高い石垣になっています。

関ヶ原の戦い後、角牟礼城のある玖珠領主となった久留島氏は、角牟礼城を廃城しました。
廃城となって放置されていたはずの角牟礼城でしたが、発掘調査の結果、江戸時代に修復されていたことが分かってきたのです。
有事に備えて角牟礼城跡周辺は管理され、城郭のような造りに変わっていったそうです。

8代藩主・久留島通嘉は、陣屋の敷地にあった三島神社を大規模に修復します。
この際に幕府には内密のまま、御長坂と呼ばれる参道を上ると垂直に積み上げられた石垣が築かれたそうです。