光秀が家康の接待役となった?!どのような家康への宴が開かれたの?
2021年2月15日本能寺の変が起こる直前に、光秀の家臣は四国の長宗我部元親と書状のやり取りをしていた?
2021年2月16日
「麒麟がくる」第43回では、明智光秀が武田軍に討ち勝った徳川家康をおもてなししたエピソードが描かれたよ。
ドラマの中では、明智光秀が指示通りに膳を出さなかったことに腹を立てた信長が光秀を扇で激しく殴ったよね。
本当に織田信長は光秀のことを殴ったのかな?
その真相に迫ってみよう。
目次
【扇で殴るのではなく、足蹴りにした?!】
フロイスの「日本史」には、家康の饗応について記されているよ。
それによると、家康への饗応をめぐって、信長と光秀が密室で話をしていたところ、信長の気に入らない話題が出て、そのことに対して光秀が口ごたえをしたんだ。
信長はその態度に逆上して、光秀を1、2度足蹴りにした…と書かれているの。
ただこの話は、フロイスが直接見たのではなく、伝聞だったため真意は不明だよ。
【なぜ信長は光秀を饗応役から解任したの?その理由は?】
家康の饗応役を任せていた光秀を突如解任した信長。
その理由はいったいなんだったんだろう?
その理由については諸説あってはっきりとは分かっていないんだ。
いくつかの説をまとめてみるね。
<光秀が用意していた魚が腐っていた説>
家康の一行は光秀の屋敷を宿とする予定だったため、信長は、光秀の屋敷に足を運んで宴会で出される肴の準備状況を確かめに行ったんだ。
初夏で暑くなっていたため、生魚が傷んでいたのか、門前に悪臭が漂っていたそう。
この臭いに驚いた信長は台所へ飛んでいくと、「こんな状況では家康をおもてなしできない」と激昂。
光秀宅から、家臣の堀秀政の屋敷に宿を変えさせたそう。
体面を失った光秀は、用意した料理を器ごと堀に廃棄したために、安土城下一帯に悪臭が漂ったと言われているよ。
このエピソードに付随して、信長が光秀の準備していた料理を琵琶湖に投げ捨てた…、信長の命を受けた小姓・森蘭丸が鉄の扇で光秀の額を割った…という逸話も残っているんだ。
「麒麟がくる」で信長が光秀を扇で殴ったのは、このエピソードが関連しているのかもしれないね。
ただ光秀は文化や伝統に通じて、教養も高かったと言われているの。
その点を信長は高く評価しているし、魚を腐らせるなんていう初歩的なミスをするとは思えないよね。
<鮒ずし説>
鮒ずしとは、琵琶湖で取れるニゴロブナを塩漬けにしてごはんを重ねて自然発酵させたもののこと。
この鮒ずしは独特の強い香りがあるため、好き嫌いが激しく分かれるんだ。
現在でも鮒ずしは食べられていて、その臭いの強さが癖になるという人もいるよね。
この鮒ずしをもてなし料理に出したと言われているんだ。
【饗応には不手際はなかったという説もある!】
「多聞院日記」によると光秀は家康をもてなすために、奈良・興福寺に調度品の貸し出しを依頼して、安土城へ運んでもらっているんだ。
このことからも光秀が、家康への饗応の準備に奔走していて、念入りに計画していることが分かるよね。
また「信長公記」にも、「京都・堺にて珍物をととのえ」とあるため、家康のおもてなしに関しては心を尽くしていたと思われるよ。
「兼見卿記」にも家康の饗応は無事に終わったと言われているんだ。
安土を訪ねた家康のために用意された饗応膳は15日の昼から17日まで続いたと言われているよ。
ただ家康の饗応を行った天正10年5月15日からわずか2週間後には本能寺の変が起こっているんだ。
光秀と信長との間にはいったい何があったんだろうね。