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2021年2月9日
播磨平定のクライマックスとなったのが「黒井城の戦い」だよ。
ここでは黒井城の戦いについてと、播磨平定後についてまとめてみよう。
目次
【丹波・赤井氏を討伐するために黒井城攻めへ】
光秀は天正7年(1579年)8月9日、赤井忠家の居城である黒井城を攻撃。
実は、忠家の叔父・赤井直正はその前年3月に亡くなっており、この時、赤井氏の勢力は衰退傾向にあったんだ。
「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられていた直正が亡くなったことで光秀の戦いは有利になったんだよ。
また第一次黒井城の戦いの時とは異なり、波多野家からの援軍もなし。
さらには黒井城の支城もほとんど落城してしまっていたので、兵力も激減していたんだよ。
8月9日早朝に攻撃を開始した光秀軍は、第一次黒井城の戦いの反省を生かして慎重に攻め込んだそう。
仮想陣地に火をかける、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけ退く、勢いにのって追ってくる黒井城の将兵たちを誘い込み挟み撃ちにするなど様々な攻撃を行ったんだ。
その中で、明智光秀軍の四王天政孝隊が千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃をしたよ。
忠家は奮戦するものの、最後には火を放ってそのまま逃亡して、遠江国二俣(現在の静岡県浜松市)に逃れたと言われているんだ。
【丹波平定後の光秀】
丹波平定後、信長は光秀に対して感謝状を贈り、その功績を激賞したんだ。
天正7年(1579年)10月24日、光秀は安土で信長と面会をし、丹波平定を報告。
これによって光秀は丹波一国29万石の支配を任されることになるよ。
5年もかかった戦いに関して、信長は秀吉の労をねぎらって大いに褒めたそう。
丹波平定が一筋縄ではいかないことであったことは信長も分かっていたよね。
だからこそ、光秀の丹波攻略に対する軍功を高く評価したんだ。
【丹波平定後、光秀はどうやって城郭を整備した?】
丹波を平定した後、光秀は信長からそのまま丹波国一国を与えられたね。
光秀はそこから、丹波国内の城郭を整備していくんだ。
それぞれの城郭をどのように整備していったかをまとめてみよう。
・拠点となったのは亀山城
光秀が丹波支配の拠点としたのは亀山城(現在の京都府亀岡市)だよ。
亀山城は京都にも近く、丹後、摂津、播磨へ通じる交通の要衝地に位置しており、天正8年(1580年)には城下町を築いたんだ。
翌年天正9年(1581年)4月には亀山城の普譜が行われたよ。
・丹波北部の拠点は福知山城
福知山城(現在の京都府福知山市)は丹波北部の拠点となったんだ。
この福知山城の城主は、光秀の家臣である明智秀満が務めたよ。
丹後、但馬方面の押さえとして重要であった福知山城は、由良川が天然の堀となっており要害の地だったんだ。
・黒井城も支城として整備
赤井氏の居城であった黒井城(現在の兵庫県丹波市)もまた丹波国の城郭として整備されたよ。
本城は標高356mの頂上に築かれていて、周囲約8㎞に及ぶ猪口山全体が巨大な要塞となっていたの。
黒井城は、但馬、播磨方面の押さえとしての機能が期待され、光秀の家臣・斎藤利三が城主を務めたんだ。
ちなみにこの黒井城は、竹田城(兵庫県朝来市)とならんで「天空の城」としてお城ファン、カメラファンから人気を集めているね。
・柏原城
広大な丹波国を支配するのに、福知山城、亀山城、黒井城だけでは不足していたため、光秀は柏原城(現在の兵庫県丹波市)の城郭も整備。
柏原城は別名「八幡城」とも呼ばれていて、現在の柏原八幡神社に所在したんだ。
この柏原城は黒井城とさほど距離が離れていない場所にあったんだよ。
・周山城
周山城(京都府京都市右京区)もまた丹波国の城郭として整備。
周山城は、京都市中に通じる周山街道沿いに築かれていて、交通の要衝地にあったんだ。
城主は家臣の明智光忠が務めていたと言われているよ。
この周山城の主郭は総石垣作りとなっていて天守台が設けられているの。
このように城郭の整備を行い、光秀は丹波の諸城を充実させていったんだよ。
一方、信長の方針によって光秀に従った丹波の国衆に対しては、城郭の破却命令を出したんだ。
城郭が残っていると、将来城郭が抵抗の拠点になることを想定していたと考えられているよ。
山家の和久氏は城郭破却の命に従わなかったため、光秀から成敗されていることからも城郭の破却命令はかなり徹底されていたと言われているんだ。