信長に反旗を翻した荒木村重はどんな人物だった?織田家中屈指の猛将として活躍した荒木村重とは?
2021年2月8日荒木村重は有岡城で籠城中に妻子や重臣を裏切り脱走した?!有岡城での籠城戦を徹底解説!
2021年2月8日
前回は荒木村重という人物についてまとめたよね。
今回は、なぜ荒木村重が織田信長に謀反したのかについて解説していこう。
【織田信長に謀反】
荒木村重は伊丹城の戦いで落城した伊丹城を改修した有岡城へと本拠を移し、摂津国37万石を任されるまでに出世していたよ。
しかし、天正6年(1578年)信長から、秀吉の播磨平定への援軍を命じられるものの、村重は突如自らの有岡城に立て籠もり、反旗を翻したんだ。
実は謀反を起こす前にその噂が信長の耳にも届いていて、明智光秀・松井友閑・万見重元らが使者として、村重の元を訪れているの。
光秀らは村重に「安土城へ出向き、信長様に弁明した方がよい」と伝えたんだ。
信長も村重に対して「母を人質に差し出し、安土城へ弁明に来れば許す」と寛大な条件を提示。
これを受けた村重は、いったんは安土城へ向かうもののその道中で、側近である村重の従兄弟・中川清秀と高山右近に止められてしまうの。
「信長の元へ行けば処刑されるに決まっている、毛利家と手を結び籠城するのが得策だ」と中川清秀から言い寄られた村重はそのまま反逆を実行してしまうんだ。
実は、旧知の仲である黒田官兵衛も村重の元へ説得に向かうものの、村重はすでに覚悟を決めており、黒田官兵衛の言うことに聞く耳を持たなかったの。
それどころか、官兵衛をそのまま城内に監禁してしまうんだよ。
信長軍は多くの敵を抱えていたため、村重との争いをなんとか抑えたかったの。
そこで、何度も使者を有岡城へ送り、翻意を促すけれど、村重は融和策にも首を縦に振らなかったんだ。
その態度について信長が大激怒。
有岡城へと突入してしまうんだ。
【なぜ荒木村重は信長を裏切った?】
荒木村重が突如、有岡城へ立て籠もって謀反を起こした理由に関しては諸説あるものの、明確な理由については分かっていないの。
最近の研究では、信長に従うよりも、毛利氏に与したほうが自分を生かせると判断し、一か八かの賭けに出たということが有力視されているよ。
村重は早い段階から謀反を検討していたと言われていて、織田氏と毛利氏との間で二股を掛けていたんだ。
その後、村重は大坂方面の指令官の地位を佐久間信盛に奪われて、中国方面の指令官の地位は豊臣秀吉に奪われてしまうの。
このことで、村重は自らの将来を悲観して、謀反に踏み切ったのではないか?と言われているよ。
また、摂津下郡を支配していた荒木村重にとって、村重に没落させられた国人や土豪などの存在は脅威だったという意見もあるの。
各地で一向一揆が頻発する中で、この国人や土豪が本願寺と結び付いて一揆を起こすのでは?と懸念していたと考えられているんだ。
追い詰められた村重は信長と決別して、本願寺や農民らと連携する道を選択したのでは?と言われているよ。
次回は有岡城での籠城についてまとめてみよう。