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2021年2月8日なぜ荒木村重は主君である織田信長を裏切ったの?
2021年2月8日
「麒麟がくる」第42話では、光秀の長女・岸の嫁ぎ先の父親で、毛利攻めの副将でもあった荒木村重がついに信長に謀反を起こして、毛利側に寝返ってしまったね。
ここでは荒木村重についてまとめてみよう。
目次
【信長を裏切った荒木村重はどんな人物だった?】
荒木村重は天文4年(1535年)に摂津の戦国大名・池田氏の家臣の1人として生まれたんだ。
幼少期から村重は腕力が人一倍強かったと言われていて、大食漢でもあったそう。
若い頃に、池田長正の娘と結婚。
永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、村重の主君であった池田勝正は三好三人衆と近かったために将軍方とは敵対していたんだ。
しかし勝正は将軍位を継いだ義昭から、摂津の守護を命じられたの。
その後は主君・勝正が将軍と信長に従ったため、荒木村重もまたその一員として働いたよ。
永禄12年(1569年)に起こった本圀寺の変の際には、三好勢に襲撃された義昭の救援に荒木村重も参戦していたんだ。
【池田家の実権を掌握するようになる】
荒木村重は徐々に、池田家中で頭角を現すようになるよ。
その理由は、主君・池田勝正と池田知正の内紛がきっかけなんだ。
池田勝正はもともと先代の子ではなかったものの、文武に優れていたために跡継ぎに指定されたの。
一方、池田知正は嫡男で、勝正をねたみ、両者の間には深い溝があったんだ。
荒木村重は、知正の有力家臣であった池田勘右衛門を自らの手で粛清し、家中にいた勝正の反対派を押さえこむことに成功したよ。
この出来事によって、村重は主君・池田勝正から絶大な信頼を獲得することになるんだ。
さらに永禄11年(1568年)には、猪名寺の戦いで近隣勢力の茨木重朝らを打ち破り、池田家中屈指の発言力を獲得することになるの。
村重は勝正が信長へ臣従したのを着に、国盗りの計画を進めはじめよ。
かつて後継者問題で敵対していた池田知正に時期当主の座を散らつかせながら、一方で三好三人衆から来た謀反の誘いを利用して、知正と主君・池田勝正を追放。
こうして村重は池田家の実権を掌握することに成功したんだ。
【織田家への鞍替えに成功】
元亀2年(1571年)白井河原の戦いでは、摂津国のライバルであった和田惟政を討ち取り、村重はさらに勢力を拡大していくの。
そこで村重は三好家から織田家への鞍替えを画策し始めるんだ。
ちなみに、信長はその頃、義昭と敵対している状況で、味方になる勢力を欲していたの。
荒木村重は、義昭を支持している池田知正を追放。
家中から池田一族を完全に排除することに成功したんだ。
信長からすれば、織田家に臣従していた池田勝正を追放して、池田家を乗っ取った荒木村重に対する印象はよくないよね。
そこで信長は荒木村重と面会した際に、無言で刀を抜いて剣先で饅頭を刺して、鼻先に突き付けて村重を挑発したと言われているんだ。
この行動に、村重は大口を開けてその饅頭をぺろりと食べたそう。
村重の平然とした豪胆さに信長は感心。
すぐに村重を気に入って、「日本一の器量なり」と絶賛したと言われているんだ。
織田家への臣従や摂津国の臣従を認めたの。
【織田家中屈指の猛将として活躍】
荒木村重は織田家の臣下となり、猛将として大活躍したんだ。
村重は畿内での重要な合戦に参陣して、戦功を挙げていくよ。
義昭を破り、室町幕府を滅亡に追いやった槇島城の戦いでの活躍は有名だよね。
そのほかにも、摂津国の抵抗勢力を滅ぼした伊丹城の戦いや越前一向一揆の鎮圧にも転戦したんだ。
さらに、荒木村重は10年にわたって繰り広げられた石山本願寺との戦いでは、主力部隊として活躍したよ。
荒木村重は、織田家の重臣であった明智光秀と同等の役割を果たしていたと言われていて、畿内のあらゆる戦線に顔を出す遊軍的立場であったんだ。
ちなみに荒木村重の嫡男・荒木村次の正室は、光秀の娘だったことから、光秀と村重は親戚関係だったんだよ。
毛利攻めでも副将を務めているし、荒木村重は織田家にとっては重要な立場であったことがよく分かるよね。
次回は荒木村重がなぜ織田家に反旗を翻したのか、その謎に迫ってみよう。