挟撃で大ピンチ!織田信長にとって最大の危機と言われる「金ヶ崎の退き口」とは? その2
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2020年11月15日
金ヶ崎の退き口では、信長軍の殿軍を勤め、金ヶ崎城を守ったとされる守護・池田勝正。
池田勝正はいったいどんな人物なんだろう?
ここでは池田勝正についてまとめてみよう。
目次
【池田勝正ってどんな人物だった?】
池田勝正は永禄6年(1563年)に前当主の池田長正の死去によって、摂津池田家惣領として家督を継いだんだ。
勝正は池田長正の嫡男でなかったものの、幼いころから文武に秀でていたため、池田家の当主となったと言われているよ。
この当時に池田氏は三好氏の盟友であったものの、翌年には三好長慶が死去し、三好氏が弱体化。
勝正は三好三人衆と組んで松永久秀と「東大寺大仏殿の戦い」などを起こしたよ。
【織田信長VS池田勝正の池田城攻めとは?】
金ヶ崎の退き口では信長の守護として活躍している池田勝正だけど、その以前には信長と戦いをしているんだ。
永禄11年(1568年)9月26日、信長は足利義昭と上洛後、当時畿内を治めていた「三好三人衆」を討伐するために、大軍勢を率いて進軍を開始したよ。
5万を超える信長の軍勢を前に、三好三人衆の岩成友通の「勝龍寺城」、三好長逸の「芥川山城」がすぐに陥落。
その中で唯一最後まで抗戦したのが、池田勝正の「池田城」だったんだ。
池田勝正は合戦当時31歳と若く、勇猛果敢な武将として名の知られた存在だったんだよ。
信長軍は10月2日に進軍を開始。
この池田城攻めでは、信長自らが進軍した合戦としても知られているよ。
池田城攻めでは、織田方の梶川高秀が討死するものの、信長軍の5万という圧倒的な軍勢に決着がつき、信長軍が勝利するんだ。
【信長によって能力を高く評価された池田勝正】
池田城攻めの後、信長は摂津国の名家でもある池田勝正の能力を高く評価したの。
抵抗に対するお咎めもなくて、6万石という加増の上で領地安堵となったそう。
さらに池田勝正、伊丹親興、和田惟政の3人を「摂津三守護」として摂津国安定を図ることに。
これによって畿内は、山城に細川藤孝、摂津に池田勝正、伊丹親興、和田惟政、河内に三好義継・畠山高政、大和に松永久秀を配置し、三好三人衆が牛耳っていた畿内を、信長軍が全て支配する形となったんだよ。
【池田勝正の活躍】
勝正は永禄12年(1569年)、三人衆による本圀寺の変で手勢を率いて救援に駆けつけ、桂川で細川藤孝や三好義継と一緒に三好三人衆と戦うんだ。
敵陣に対して斬りこみ、勝利に貢献することになるよ。
さらに、池田勝正は信長の但馬・播磨の平定、浦上宗景の討伐にも協力。
金ヶ崎の戦いでは、明智光秀、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らとともに殿軍をつとめて、信長を無事に逃す功績を挙げたよ。
【池田城を追放された池田勝正のその後は?】
金ヶ崎の戦いが起こった元亀元年(1570年)の6月には、家臣・荒木村重と一族の池田知正が三好三人衆の調略を受けて三好家に寝返ってしまうんだ。
そのため、勝正は池田城から追放されることに。
勝正はこのことが原因で同族と不和になって、同族の家老2名を殺害した上で自ら大坂に出奔。
勝正は三好義継に伴われて上洛し、足利義昭に拝謁したと言われているよ。
その後は、三人衆についた荒木村重の押さえとして信長から原田城主に任命され、各地を転戦。
信長が義昭と決別後は、勝正は幕府方についたため、信長家臣となった村重によって原田城を追われ高野山に追放されてしまうんだ。
その後は、池田に戻って隠居したと言われているよ。