第15代将軍・足利義昭と信長の関係性とは?信長包囲網ってどんな出来事だったの? その1
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2020年10月8日
今回は前回の続きで、足利義昭と信長の関係性についてまとめてみるね。
信長に対して怒った義昭が取った行動「信長包囲網」とはいったいどんな出来事だったんだろう?
分かりやすく解説していこう!
目次
【信長包囲網とは?】
思惑の違いから信長との対立が決定的なものとなった足利義昭は、本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄など諸国の有力な大名たちと信長包囲網を敢行したんだ。
信長と対立している、もしくは対抗しうる諸国の大名や、大阪の本願寺に書面を発して、信長への敵愾心を露わにしたんだよ。
元亀年間(1570年~1573年)を通じて、織田信長は浅井長政、朝倉義景、三好三人衆、武田信玄、本願寺顕如らと抗争を繰り広げることに…。
彼らは義昭の呼びかけによって信長を追いつめる共同戦線を張ったんだよ。
これを「信長包囲網」と呼んでいるの。
後一歩のところで、信長を追い詰めるところまで来たものの、1573年に甲斐の武田信玄が西上の途上で病死してしまうんだ。
武田信玄が亡くなったことによって、信長包囲網の一角が崩れてしまい、7月には義昭は槇島城を信長に攻撃され、都を離れることになってしまうの。
これをもって、室町幕府は終焉を迎えて、信長包囲網は決壊してしまうんだ。
【槇島城を信長に攻撃された義昭はどうした?】
織田軍の猛攻に耐えられるような城ではない槙島城に籠っていた義昭は、打って出た兵は討ち取られてしまい、四方を放火されてしまうの。
絶体絶命に陥った義昭は、ようやく降伏。
嫡男の義尋まで差し出したので降伏だったから、将軍の権威はもはやなかったことがよく分かるよね。
義尋は当時1歳の赤ん坊で、信長は義尋を斬りはせず、お寺に預けたそう。
また、義昭そのものの命についても奪うことはなかったんだ。
京に居場所がなくなった義昭は、本願寺顕如の助力を得て、三好義継を頼ったの。
しかし、義昭を匿ったことがばれた三好義継は信長の怒りを買い、あっさりと討ち取られてしまうんだ。
信長と義継は、良好の関係を築いていたものの、信長包囲網の際には1度義継が信長を裏切ったことから、2度目の裏切を信長は許せなかったんだろうね。
三好義継が討たれていよいよ畿内に居場所がなくなってしまった義昭は中国の毛利氏を頼ることに。
毛利氏と島津氏が義昭の味方をし、援助をしていたため生活には困らなったようだよ。
また毛利家の勢力下にあった足利家ゆかりの地・鞆(とも)に御所を構えることもできたそう。
【信長包囲網に対する信長の戦術とは?】
全国各地で信長に従わない大名や一向宗などの包囲網が作られ、信長と対峙してくる者たちに対して、信長はそれを個別に撃破していったよ。
特に、この時代の武士層は農村に住んで、普段は農作業をしていたんだ。
そのため、武士として戦いに参加できるのは農閑期に限られていたんだよ。
長期間地元を離れて遠征して戦うということはできなったそう。
上杉謙信、朝倉義景、武田信玄、毛利輝元らも上洛には動くことができなかったんだ。
信長にも兵力に限りがあったので、大大大名たちが地元を離れることができないのに対して、信長は大きな武士層の改革を行うことにしたの。
武士層を農村から切り離して、自分の城下町である岐阜に家臣たちの屋敷を構えさせたよ。
武士を農村から切り離して、武士団を再編成した信長の改革は実に素晴らしかったんだ。
家臣団を各地に分散して遠征、常駐させることで信長包囲網に対抗することができたと言われているの。
農閑期には守りに徹して、農耕期に攻め込む戦術をとったんだよ。
この戦術が功を奏して多くの抗争に打ち勝つことができたんだ。
もう1つ、信長の戦術で忘れてはいけないのが「鉄砲」など近代兵器を採用したことだよね。
信長と言えば、新しいものをいち早く取り入れることで有名だけど、兵器に関してもすぐに取り入れたそう。
ポルトガル人によって日本に持ち込まれた種子島と呼ばれた火縄銃を取り入れたよ。
【信長の強力な指導力で強さを発揮】
信長の軍団が強さを発揮できたのは、信長の強力な指導力があったからと言われているよ。
自らをカリスマ化した信長の支配力は、恐怖政治とも言える決断力を秘めていたんだ。
子供の頃から家臣であった者でも、無能であればすぐに追放する信長の命令は、家臣団に有無を言わせず恐怖を与えていたんだ。
「鳴かずなら殺してしまえ、ホトトギス」という句が有名だけど、それくらい信長は厳しい人だったんだよ。