室町幕府13代将軍・足利義輝が殺される「永禄の変」とはどんな事件だったの?
2020年9月29日第15代将軍・足利義昭と信長の関係性とは?信長包囲網ってどんな出来事だったの? その2
2020年9月29日
「麒麟がくる」第24話では、13代将軍・足利義輝が殺害され、次期「将軍の座」をめぐる新たな対立が勃発したね。
次期「将軍の座」として、義輝のいとこにあたる足利義栄と、義輝の実弟である覚慶が対立することになるよ。
ここでは次期将軍の座として争うことになった、義輝の実弟・足利義昭(覚慶)についてまとめてみよう。
目次
【義栄と覚慶(義昭)の争い】
義輝を殺害した三好義継や松永久通は、堺公方と呼ばれた足利義維の子供である義栄を擁立していたんだ。
そこで、当時興福寺の一乗院に入っていた義輝の実弟である義昭(覚慶)は松永久通によって幽閉されてしまうの。
しかし、義輝の側近である一色藤長や細川藤孝、三淵藤英らの助けによって脱出すると、次期将軍候補として名乗りを上げるよ。
永禄9年(1566年)4月には、義昭(覚慶)は三好方が擁立した義栄に先んじて、次期将軍が就くとされる「従五位下・左馬頭」に任ぜられるんだ。
それに遅れて半年後には、義栄も同じ官位官職につくことになるよ。
将軍家の分裂解消はならず、しばらくは義栄と義昭(覚慶)の争いは続くことになるの。
永禄11年(1568年)義栄が14代将軍に立つものの、同年には義昭(覚慶)が信長に奉じられて上洛。
義栄は病を患っておりすぐに病死し、15代将軍に義昭(覚慶)が就任することになるんだ。
【足利義昭(覚慶)はどんな人物だったの?】
足利義昭(覚慶)は、室町幕府15代最期の将軍だよ。
在職は1568~1573年のわずか5年間だけなんだ。
義昭(覚慶)は、12代将軍・足利義晴の次男として1537年に京都に誕生。
近衛種家の猶子となって、その後は大和の興福寺へいたんだ。
しばらく僧侶生活を続けていた義昭(覚慶)は、1562年兄の足利義輝が松永久秀・三好義継らに「永禄の変」で殺害されると、その身に危険が及んで寺を脱出するの。
それ以降、自らの将軍就任を目指すために放浪生活を続けることになるよ。
この脱出を手伝ったのが細川藤孝や三淵藤英、和田惟政など室町幕府の幕臣たちだったの。
1568年には明智光秀や細川藤孝の働きによって、織田信長の助力を獲得すると、京都へ進み出て室町幕府15代将軍に就任することになるよ。
【義昭(覚慶)は信長を父とまで呼ぶようになる】
「麒麟がくる」では滝藤賢一さんが演じている義昭(覚慶)が、兄・義輝が暗殺されると出家の身から還俗して足利家当主になるよ。
義輝殺害後すぐの京都は危険極まりなく、おちおち家に帰ることはできなかったんだ。
そこで、全国の大名を頼りまくり、断れ続け、最終的に行きついたのが岐阜城を本拠に移した織田信長だったの。
織田信長と義昭(覚慶)の橋渡しをしたのが、細川藤孝(細川幽斎)や三淵藤英、明智光秀なんだよ。
義昭(覚慶)と信長の当時の関係は非常に良好で、義昭が京都で襲われた時には、信長は岐阜からわずか2日で駆け付けたと言われているんだ。
信長の助力のおかげで京都へ戻ることができた義昭(覚慶)は信長のことを父とまで呼び慕っていたそう。
実際のところ、3歳しか年齢差はなかったそうだけど…。
【信長との関係が悪化し、信長包囲網がスタート】
義昭(覚慶)は将軍の位だけに満足せず、全国の諸大名に働きかけて自らの権力を強大化させようとし始めるの。
その動きに、信長はだんだん焦りを感じ、義昭(覚慶)に対して「殿中御掟」という要望書を提出したよ。
この要望書は命令のような感じで、2回も出されたそう。
その内容は、「信長自身が仕事をするので、義昭(覚慶)はちょっと引っ込んでおとなしくしておいてください」というものだったの。
その要望書の最後には「平和になったら儀式をやっていただくのでその時はよろしくお願いします」と書いてあったそう。
はじめはこの要望を素直に受け入れた義昭(覚慶)だったけれど、2回目に信長からさらに厳しい意見書が出されるとついにブチ切れてしまったよ。
我慢ならなかった義昭(覚慶)は、各地の大名に「信長を討て!」と命令を下したそう。
これが「信長包囲網」と言われているよ。
次回は信長包囲網について詳しく解説していこう。