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2020年7月13日
織田家にゆかりのある地域はいくつかあるんだけど、愛知県津島市もその1つ。
津島は「信長公記」にも登場するよね。
津島市には織田家の繁栄を支えた「津島湊(つしまみなと)」があったんだよ。
ここでは織田家のメインバンクとなった津島湊についてまとめてみよう。
目次
【津島湊ってなに?】
愛知県津島市には、織田家の繁栄を支えた津島湊があった場所なんだ。
津島湊は尾張と伊勢を結ぶ河川交通の要衝であり、当時、交易が盛んに行われた商業都市だったんだ。
津島湊は、昭和初期の神戸・横浜に匹敵する大貿易港でもあり、日本の東西物産交流の接点でもあったよ。
紙、木綿、海苔、塩、魚、鳥など様々な商品が売買されていて、伊勢の甲冑、弓矢などの武具職人の店もたくさんあったんだ。
織田信秀の父・信定(信長の祖父)の時代に、物資が多く集まるこの土地を掌握したんだよ。
津島の経済力を手にした織田家は、信秀の代に飛躍し、尾張統一に向けて躍進していくことになるんだ。
津島湊があった跡地は、現在は天王川公園として整備されているよ。
現在は、土砂の堆積によって天王川はなくなってしまい(江戸期に消滅したといわれているよ)、天王川公園に残る丸池だけが、当時をしのぶ貴重な遺構となっているんだ。
江戸時代に川がなくなってしまったことによって、湊町としての機能を失ってしまった津島湊は、時代の流れとともに衰退していったんだよ。
また津島は津島神社の門前町としてもにぎわっていたといわれていて、織田家は津島神社を氏神として仰ぎ、造営にも協力していたそう。
津島を掌握していた織田信長の父・信秀は大変な大金持ちで、信長はかなりのおぼっちゃまだったんだよ。
一説には、信長が後年、安土城築城の際に、城を提灯でライトアップしたといわれているんだ。
この提灯によるライトアップは、津島の天王祭をマネして行ったと言われているよ。
織田家を語る上で、津島は切っても切り離せない土地といえるね。
【織田家のメインバンクであった商都・熱田】
津島湊とともに、織田家の経済力を支えていたのが商都・熱田だったんだ。
織田家のメインバンクともいわれた商都・熱田は、東海道と伊勢湾に面した交通の要衝で、熱田神宮の門前町として古くから商業が盛んな地域だったの。
熱田神宮は、かつて海に面して鎮座しており、三種の神器の1つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祭って、朝廷や武将から崇敬を集めていたよ。
尾張の領主である織田氏にとって、膝元にある商業都市は重要な資金源であり、商都の存在は領国支配には欠かせないものだったんだ。
熱田の豪商と津島の町衆の財力は、信秀が織田大和守家中で頭角をあらわしていく過程において、重要な財源として役割を果たしたよ。
その結果、信秀の元へ大量のお金がなだれ込んできて、多数の兵士を養う軍資金となったんだ。
【先見の目があった織田信長の祖父・織田信定】
信定が生きていた戦国時代の貿易湊というところは、経済力を背景に地元の人々によって自治が行われていたんだ。
自由都市のような、言ってみれば独立国的な様相であったそう。
津島も四家、七党、四性という町衆によって自治が行われていて、そこに軍事的に介入したのが信長の祖父・信定だったんだ。
信定は津島の貿易による経済力、津島牛頭天王社の持つ全国的なネットワークを手に入れようとする先見性があったんだよ。
この先見性は、息子の信秀、さらには孫の信長にまで引き継がれていくことになるね。