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2020年7月11日
大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公である明智光秀の前半生は実は謎に包まれているんだ。
謎に包まれている前半生を過ごしたといわれているのが、現在の岐阜県可児市なんだよ。
可児市には光秀ゆかりの明智城もあったんだ。
ここでは、光秀のゆかりの地についてまとめてみよう。
目次
【光秀のふるさとと言われる岐阜県可児市】
かつて「明智荘(あけちのしょう)」が広がっていた可児市は光秀のふるさとであると言われている場所の1つなんだ。
光秀は明智荘を治めていた土岐明智氏の出身ではないか?と言われていて、鎌倉時代後期に可児市に土着して、東美濃地区に強い影響力を持った一族だったよ。
光秀が生まれたと語り継がれている明智家屋敷があったと推定される場所は、現在は水田が広がっているんだ。
光秀は約30年もの間、この可児市で過ごしたと言われているよ。
【光秀ゆかりの明智城とは?】
明智城は美濃国可児郡にあった日本のお城で、別名「長山城」「明智長山城」と呼ばれることもあるよ。
張り出した尾根、谷などの自然地形をうまく生かした典型的な中世の山城で、美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が明智と改名してこの城を築いたのが始まりと言われているよ。
その後、200年間にわたって明智氏代々の居城となって栄えたんだ。
この明智譲は光秀の叔父である光安も城主を務めているんだよ。
光秀は1528年に、可児郡明智荘で生まれ、早くに父親を亡くしているんだ。
そのため、父が亡くなった後は叔父である明智城城主の明智光安の元で暮らしたと「美濃国諸旧記」にも記されているよ。
光秀ゆかりの城である明智城は、1556年に斎藤道三とその子・義龍の争いに巻き込まれて落城したとも伝えられているんだ。
斎藤義龍は父・道三に対して挙兵し、親子の対立は美濃を二分する争いになったんだ。
明智城・城主であった明智光安は、どちらの勢力にも加担しないと決断するものの、道三が打ち取られた後も道三の義理を貫いたため、明智城は義龍に攻められてしまうんだ。
光安は籠城するものの、耐え切れず落城してしまい、光安や他の武将が数多く命を落とした…と言われているよ。
【明智城は現在どうなっているの?】
光秀が落城するまで約30年間過ごしたとされる明智城は、現在は遊歩道が整備され、ハイキングコースとして人気があるんだ。
城址は本丸跡や曲輪・土塁などの遺構が比較的きれいに残っていて、ハイキングコースの右手側には堅堀も見ることができるよ。
また、明智城跡は可児市指定史跡となっていて、春から秋にかけてはハイキングコースを楽しむ人でにぎわうんだ。
明智城跡は、登山口から本丸跡までつづく桔梗坂というルートがおすすめ。
この登山口に付近には、明智家の家紋である桔梗の花がたくさん植えられているんだよ。
5月中旬から9月頃まで桔梗の美しい紫の花を楽しむことができるの。
明智城は歩きやすく整備されているので、山城初心者でも城巡りをしやすいんだ。
城跡は東西に長くのびていて、標高は175㎡、中央に本丸を築いていて、別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設を配置させていたそう。
出丸跡付近には、明智城落城での戦没者を葬った七ツ塚もあるよ。
さらにこの七ツ塚付近には馬場跡があって、敵の通過を防ぐ馬防柵も再現されているんだ。
本丸跡近くにある展望デッキからは山上の眺望を望むことができるよ。
北側にある明智駅方面が一望でき、織田信長の小姓として有名な森乱丸が城主だったと言われている美濃金山城跡も見ることができるんだ。
また明智城跡から5分ほど歩いたところにある瀬田川の畔には明智光秀の産湯の井戸があっとと伝わっているの。
残念ながら井戸はすでになく、現在は耕地整理で開発されて水田になってしまっているんだ。
でも、大きな木の下に案内板は立ててあるので、その場所に行くことはできるよ。
【明智光秀の位牌がある天龍寺】
明智城跡の麓には天龍寺というお寺があるよ。
この天龍寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で古くから明智一族と深い関わりがあったんだ。
天龍寺には日本一大きな明智光秀の位牌があり、明智氏歴代の墓所もあるんだよ。
日本一大きな光秀の位牌は、本堂の真正面に置かれているから、訪れたときにはぜひ見ておきたいね。
位牌の大きさは、なんと184㎝もあるんだよ。
光秀は本能寺の変で主君である織田信長を討った謀反人として知られているよね。
そのため、光秀の一族は迫害されることを恐れ、明智の姓を名乗らずに苗字を変えてしまった人も多かったんだ。
そのこともあり、明智光秀の生誕地説として有名な可児市にも史料や史跡はあまりないという現状があるよ。
その中で、明智氏歴代の墓所がある天龍寺は、光秀を知ることができる貴重な史跡の1つなんだ。
光秀は謀反人という印象が強いものの、優れた政治力があり、高い文化的教養、軍事的な力量があった人物として再評価されているよ。
光秀がどのような人物であったのかを知ることができる明智城巡りやゆかりの地・可児市巡りは、光秀ファンならぜひ行っておきたいですね。