九州攻め(九州平定)と九州国分。豊臣秀吉と島津家の対立
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2020年5月13日
宇都宮仕置は天下統一を遂げた豊臣秀吉が行った戦後措置のことなんだ。
ここでは、秀吉が行った宇都宮仕置について分かりやすくまとめていくね。
目次
【宇都宮仕置ってなに?】
小田原征伐で東国の勢力を制圧してついに天下統一を遂げた豊臣秀吉は、関東、奥州の諸領主たちに対して戦後措置を行ったんだ。
それが1590年(天正18年)7月に行われた「宇都宮仕置」だよ。
「仕置」とは、領主権力における所務(徴税)を除く所領統治全般を指しているよ。
戦国時代には大名・国人などの領主層における行政・司法の意味で用いられていたんだ。
秀吉は小田原北条氏を降した後、宇都宮・会津へと進軍したんだ。
なぜ宇都宮を選んだか?というと、秀吉は鎌倉幕府を樹立した源頼朝を真似たと言われているの。
源頼朝が奥州合戦の際に、1189年7月19日に鎌倉を発って宇都宮で宇都宮大明神に奉幣し奥州を平定したことに倣いたんだ。
同じ7月19日に鎌倉を出発し、宇都宮城で関東・奥州の諸大名に戦後措置を行ったんだよ。
この宇都宮仕置で、秀吉はその後に行われる奥州仕置の方針も決定したんだ。
【宇都宮城での宇都宮仕置はどんなものだったの?】
1590年(天正18年)7月13日に関白・豊臣秀吉は、後北条氏を小田原城で降伏させたよね。
その後、7月17日に鎌倉・鶴岡八幡宮を参詣し、7月19日に鎌倉を出発。
7月25日に下総国・結城城に到着したんだ。そこでは、養子である秀康を結城氏の養嗣子としたよ。
翌26日には、下野国・宇都宮城に入城したんだ。
秀吉は宇都宮に滞在して、会津の巡察行軍を行ったそう。
その後、再び宇都宮に入城し、この期間は20日にも及んだんだよ。
秀吉が宇都宮に長期滞在した理由は、公的には「長雨が降っていたため」とされているの。
しかし実際には、宇都宮城滞在中に奥州仕置の方針も決定されていたため、滞在が長くなったのでは?と言われているよ。
秀吉滞在中には、常陸・佐竹義宣、南部・南部信直が宇都宮入りしており、7月28日には伊達政宗も宇都宮入りしたんだ。
このように関東・奥羽の大名達が宇都宮に出頭していたんだよ。
そこで戦後の所領措置(朱印状)を申し渡していたの。
関東地方に対する仕置が7月28日~8月4日にかけておこなわれ、8月1日には佐竹氏の領国画定によって、先に江戸城への移封が決定された徳川氏など関東諸大名の国分がほぼ画定されたんだ。
この宇都宮仕置は、2016年に放送された大河ドラマ「真田丸」でも扱われてたの。
ただ、真田丸では、宇都城で伊達藤次郎政宗による酒宴が開かれ、そこで政宗はみんなに「ずんだ餅」をふるまったという設定だったんだ。
【天下統一の最期の舞台としてふさわしい宇都宮】
宇都宮城に入城した秀吉は、源頼朝と同じように宇都宮大明神を奉幣して、東国の安定を祈願したと推察されているんだ。
実際のところ、本当であったのかは分からず、当時の宇都宮城下は後北条勢力の日光山僧兵等による焼き討ちなどで焼失していてため、天下人の奉幣を受ける余力があったかどうかは定かではないよ。
実際、社伝にも秀吉の奉幣を伝える記録は残っていないんだ。
宇都宮は下野国・一宮名神大社 河内郡 二荒山神社の別称でもあり、下野国の国造家は崇神天皇の命により東国平定に臨んだ豊城入彦命を始祖とするなど、天下統一の舞台として相応しい場所であったと考えられているんだ。
実際に宇都宮を選んだことが秀吉の意図によるものであったかもはっきりとは分からないものの、ロマンを感じられるよね。
二荒山神社の祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰が篤く藤原秀郷公(平将門の乱)、源頼義・義家公(前九年・後三年の役)源頼朝公(源平の役)徳川家康公(関ヶ原の合戦)など各々当社に戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。
因に江戸時代の当社神領は1500石に達し鹿島・香取神宮を上回っていました。
引用: 二荒山神社ホームページより