織田信長の生涯を簡単に解説!第四回 〜 安土城と明智光秀による本能寺の変 〜
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2020年4月21日今回は伊達者の伊達政宗。
出羽国と陸奥国の戦国大名、仙台藩の初代藩主である伊達 政宗。
幼名は梵天丸で没後は法名から貞山公と尊称されました。
戦国時代の真っ只中、、米沢城にて生まれました。
1567年には真田幸村も生まれています。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名となるのは有名ですね!
また、伊達政宗の甲冑、大きな三日月の前立てをつけた黒兜もゲームやドラマでとても有名です。
伊達政宗の兜は実在のもので4個、現存すると言われています。
5枚の鉄板を使って堅牢に仕上げた胴を使った政宗の具足は「黒漆五枚胴具足」と呼ばれています。
その「黒漆五枚胴具足」は仙台市博物館に展示されています。
また、仙台藩伊達家の歴代当主や家臣にも受け継がれたため、別名「仙台胴」とも言われています。
目次
独眼竜の由来
伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として生まれた政宗は父の輝宗から高等な教育を受けて育ちました。
その中でも有名なのが虎哉宗乙(こさい そういつ)です。
輝宗は虎哉宗乙を迎え入れ、政宗の師とされます。
虎哉宗乙は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉でも知られる快川紹喜とも交流があり、
政宗に中国の史書『十八史略』を手本にして「隻眼の英雄・李克用」を見習うように促したという事です。
その「隻眼の英雄・李克用」は同じく「独眼竜」と称されており、彼が指揮する黒ずくめの軍団は「鴉軍」と呼ばれていたことから
大いに伊達政宗のルーツになっていることとなるでしょう。
政宗の名は、実は、伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもの。
政宗は11歳で元服し梵天丸から政宗を名乗り始めますが当時の元服は15歳で行うのが通例だったため、非常に早い異例の元服でした。
ちなみにサンドウィッチマンの伊達みきおさんのルーツは、独眼竜の第17代・伊達政宗ではなく「第9代の伊達政宗」に関わりがあり
「第9代の伊達政宗」の弟、伊達宗行がご先祖と当たるそうです。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、いろいろと画策したため
(1585年)8月には大内領の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しに。
そんな中、和睦のために来たはずの畠山義継が発端となり、父の輝宗はその畠山義継を見送りに出たところを拉致されてしまいます。
その際に、鷹狩りに出かけていた政宗は、急ぎ戻って義継を追跡し、あろうことか鉄砲を放って父の輝宗もろとも一人も残さず殺害したとされています。
これには諸説あり、もとより政宗による父殺しの陰謀と見る説もあります。
父、輝宗が死んだことにより、奥州の均衡は完全に崩れ、伊達家は奥州など周囲のすべてを敵に回して戦うことになります。
「人取橋の戦い」は、南奥州連合軍と伊達家の戦いであり、有名な戦いです。
その後、綱渡り的な人生ながら勝ち戦も重ねた政宗は、23歳には奥州を制覇し全国に名を轟かす存在になりました。
伊達者の言葉の由来
伊達者という言葉の由来は諸説あります。
1591年 豊臣秀吉が朝鮮出兵で伊達政宗に1500の兵とともに出兵を命じた際に
倍の3000の兵とともに名護屋城に着陣。
その時の伊達政宗一行の豪華絢爛な戦装束が名護屋城への道すがらの京都も含めた住人たちも歓声を上げたといわれており、
それ以来、派手な装いを見事に着こなす者を「伊達者」と呼ぶようになったと言われています。
また、
豊臣秀吉が下した私戦禁止令を破り、秀吉に従わなかった政宗。
秀吉の命じた小田原攻めにもなかなか参戦しなかった政宗ですが
参戦した時に髪を切りそろえて垂らし、鎧の上に死に装束に見える白い陣羽織をまとっていたとか。
そのパフォーマンスが、もともと派手好みの秀吉を和ませて、死罪を免れたと言われています。
その後もまた秀吉の怒りに触れ、釈明に上洛した際には金塗りのはりつけ柱を先頭に上洛。
このように派手なパフォーマンス、粋なパフォーマンスが政宗の持ち味だったのかもしれませんし、
実際に秀吉に殺されそうになった時の政宗の命を永らえたのも事実でしょう。
これらの逸話が「洒落た、粋な、豪華な」という意味の伊達者の由来と言われていますが、
伊達者という言葉自体はそれ以前からあり、その言葉を実際に流行らせた、というのが正解なのかもしれません。
仙台真田氏の誕生
伊達政宗の歴史も非常に多くの出来事があり1記事では収まること不可ですが
伊達政宗の最後の戦も他の著名戦国大名と同じく1614年〜1615年の大坂の陣でした。
伊達勢は真田信繁の率いる軍に苦戦を強いられましたが大坂の陣で、政宗は真田信繁の子女を保護した、乱取りした、
信繁が政宗の器量を見込んで預けた、などと諸説伝わっていますが、実際のところはわかりません。
しかし、政宗に保護された信繁の子は、のちの仙台真田氏として存続することになるのです。
仙台市博物館にも行ってみよう!
仙台市博物館は、仙台伊達家由来のものを多く展示している言わば伊達博物館でもあります。
定期的に展示されている実物の政宗の兜も見れますが、展示タイミングは要問い合わせ。
現存する「黒漆五枚胴具足」「銀伊予札白糸威胴丸具足」「三宝荒神形兜」3つの兜も見ることができますし
多数の伊達政宗、伊達家の文化財を保存しています。
機会があればぜひ、杜の都(もりのみやこ)仙台を訪れた際には青葉城とともに立ち寄ってみてはいかがでしょうか?