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国宝や重要文化財多数!「お西さん」こと西本願寺の魅力とは?なんで本願寺は西と東があるの?

西本願寺 from google

 

京都にある西本願寺は、国宝や重要文化財がたくさんある人気のお寺。

「お西さん」として親しまれる西本願寺の魅力に迫ってみよう。

 

【西本願寺とは?】

 

西本願寺は京都の人々から「お西さん」と呼ばれ親しまれている京都府京都市下京区の寺院だよ。

浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺は、山号を龍谷山、御本尊として阿弥陀如来を祀っているの。

西本願寺の正式名称は「龍谷山 本願寺」と言うんだ。

ただ同じ下京区にある浄土真宗大谷派の本山である「東本願寺(真宗本)」と区別するために一般的には「本願寺」と呼ばれることが多いよ。

 

 

【西本願寺の歴史とは?】

 

西本願寺は鎌倉時代後期の1272年(文永9年)に親鸞聖人の末娘・覚信尼が親鸞聖人の遺骨を改葬して、東山吉水北に六角の廟堂を建立したのが起源なんだ。
親鸞聖人はお経「大無量寿経」に記されている阿弥陀仏の救済を説き、多くの人の信仰を集めたと伝えられているよ。

 

室町時代中期の1438年(永亭10年)には御影堂や阿弥陀堂が建立されたものの、1465年には延暦寺の衆徒によって破却されてしまうの。
1478年(文明10年)には山科に山科本願寺が再興されるものの、1532年(天文元年)に六角定頼や日蓮宗の衆徒などによって焼き払われてしまうよ。

1533年(天文2年)からは大阪の石山本願寺に移されたんだ。

 

このように本願寺は権力への抵抗運動を繰り広げながら、滋賀・福井・和歌山・大阪など一定の場所に留まることなく、移り変わってきたの。
そして1591年に豊臣秀吉に土地を寄進され、現在の地に移ることになったよ。

 

お坊さんレモン
お坊さんレモン
いろいろな場所を転々として今の場所に至るんですね!

 

顕如上人亡き後、後継者問題が起き、1603年に徳川家康に土地を寄進された教如上人は東本願寺を設立したの。
その後も本願寺は東西に分かれたまま現在の形に至るんだ。

お坊さんレモン
お坊さんレモン
後継者問題はいつの時代も大変ですよね〜

 

【本願寺は2つある!お西さん(西本願寺)とお東さん(東本願寺)】

 

本願寺は浄土真宗のお寺なんだけど、浄土真宗は多くの宗派に分かれているの。
真宗十派と言って、10の宗派に分かれているよ。

 

その中でも最大のものが

・東本願寺を本山とする「真宗大谷派」
・西本願寺を本山とする「本願寺派」

なんだ。

 

 

【元々は1つだった?本願寺が東と西に分かれているのはなぜ?】

 

実は本願寺は今から500年ほど前の戦国時代は1つのお寺だったの。
けれど、織田信長が現在の大坂城の場所にあった石山本願寺を攻めた「石山戦争」をきっかけに2つのお寺に分かれたんだ。

 

当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如によって建立された浄土真宗の一大拠点だったの。
この石山本願寺は難攻不落の砦であり、織田信長は10年以上攻め続けたんだ。
結局、石山本願寺を降伏させることは出来なかったの。

 

浄土真宗との戦いに天下統一の足止めをされてしまう…と思った織田信長は、当時の正親町天皇を間に入れて和睦を求めたよ。
その時に、本願寺内では信長と和睦するか、徹底的に戦うか?で議論が分かれたそう。

 

この2つの考えによって、本願寺内が2つの派閥に分かれてしまったというわけ。
これが、本願寺が東本願寺と西本願寺に分かれるきっかけなんだ。

お坊さんレモン
お坊さんレモン
織田信長の攻撃から10年以上も耐えたほど強かったんです

 

【お東さんとお西さんでは何が違うの?】

 

東本願寺と西本願寺ではいったい何が違うんだろう?
その違いをまとめてみよう。

 

<お経は同じ>

東本願寺と西本願寺では、お経には特に違いがないよ。
浄土真宗で最も重要視されるお経は「帰命無量寿如来」で始まる正信偈というもの。
これは、釈迦の唱えた本来の意味でのお経ではなく、親鸞の書いたものなんだ。

 

この正信偈こそが浄土真宗で最も重要なお経であり、これはお東さんでもお西さんでも変わりはないの。
ただし、正信偈を読み上げる時の音程などには違いがあるそう。
西本願寺では「なもあみだぶつ」と読むところを、東本願寺では「なむあみだぶつ」と読むんだ。

 

<お焼香の本数と回数>

お焼香の本数はお東さんもお西さんも1本なんだけど、お焼香の回数はお西さんが1回なのに対して、お東さんは2回になっているよ。

 

<仏壇や仏具に違いあり>

東本願寺と西本願寺は教具やお経は同じであるものの、仏壇や仏具には違いがあるんだ。
仏壇に関しては、柱が金箔で加工しているのが西本願寺、柱が黒塗りに加工されているのが東本願寺なの。

 

さらに仏具である花立、香炉、ろうそく立てなどは西本願寺は黒系の色合いのものを使用するのに対して、東本願寺は金色のものを使用しているんだ。
東本願寺の灯立(ろうそく立て)は亀の上に鶴が乗っているデザインなんだけど、西本願寺の灯立は銅に漆塗りの宣徳製のデザインになるよ。

お坊さんレモン
お坊さんレモン
仏具にも違いがあるんです!

 

<御本尊の形>

西本願寺の阿弥陀如来立像には後光の下に「舟後光」と呼ばれる部分があるの。
一方、東本願寺の御本尊には、舟後光と呼ばれる部分はないんだ。

 

<御本尊を掛け軸にした際の後光の本数>

西本願寺では来光が細いため、後光は8本描かれているよ。
一方、東本願寺の来光は太めの光が6本描かれているんだ。

 

 

【お東さんとお西さんは仲が悪い?仲が良い?】

 

東本願寺と西本願寺は、江戸時代までは仲がよくなかったそう。
その当時浄土真宗は、大名以上の日本最大の集団で、結束力も強く武装もしていて江戸幕府の大きな抵抗勢力であったんだ。

 

そんな浄土真宗の力を削ぎ落すために、徳川家康は画策をして2つに分断したの。
2つに分かれた本願寺は、浄土真宗内で争うようになりお互いの力を減少させていったんだ。

 

しかし江戸時代後半になると、お東さんとお西さんの対立は次第に弱まり、内容によっては共同歩調を取るようになったの。

明治時代になると江戸時代初期の確執も薄れ、第二次世界大戦以降は融和ともいえる良い関係性になったそう。
現在では東本願寺と西本願寺を含む浄土真宗の10派で真宗教団連合という組織を作り、盛んな交流を行っているよ。

 

ただその一方で、信者間には潜在的な対抗心は残っているそう。
東本願寺だけを参拝して、西本願寺には参拝しない…という信者もいるんだって。
心情的な違和感に関しては、一般門徒の間にはまだまだ存在しているんだ。

 

お坊さんレモン
お坊さんレモン
根強い確執はまだあるのかもしれませんが仲良く行きましょ〜

 

【西本願寺には国宝や重要文化財がたくさん!見どころを徹底解説!】

 

西本願寺には国宝や重要文化財が多数あり、見どころいっぱいなんだ。
ここでは西本願寺を訪れたらぜひともチェックしておきたいスポットをまとめてみよう。

 

阿弥陀堂 from wikipedia

 

<阿弥陀堂(国宝)>

国宝に指定されている阿弥陀堂は、西本願寺の本堂であり1760年に再建されたもの。
東西42m、南北45m、高さ25mの規模を誇る大きなお堂だよ。

 

内部には阿弥陀如来像を安置する内陣を中心に、その左右に余間、三ノ間、挟屋ノ間がそれぞれ並べられているよ。
これは一般的な真宗本堂の構成になるんだ。

 

中央には本尊の阿弥陀如来の木像、左右にはインド・中国・日本の念仏・祖師七師と聖徳太子の影像などが安置されているよ。
阿弥陀堂は御影堂に比べると小規模であるものの、より卓越した技術・意匠で建てられているの。
真宗本堂の完成形とも言われているんだ。

 

御影堂 from wikipedia

 

<御影堂(国宝)>

本願寺の御影堂は圧倒的な大きさを誇っているお堂。
より多くの門徒を収容できるように、どんどんと巨大化していった真宗仏堂の到達点とも言えるよ。

 

現在の御影堂は1636年(寛永13年)に再建されたもの。
東西48m、南北62m、高さ29mの大きさで、中央には親鸞聖人の木像、左右には本願寺歴代門主の御影を安置しているよ。

 

本願寺の重要な行事はこの御影堂で行われているんだ。
外陣だけで畳441枚の広さがあり、一度に1200人もの人が参拝できるそう。
圧倒的なスケール感で壮大な迫力を感じられるよ。

 

飛雲閣 from wikipedia

 

<飛雲閣(国宝)>

西本願寺境内の南東隅には、「滴翠園」と呼ばれる庭園があるの。
その庭園内の池にせり出すように建っている3階建ての楼閣建築が「飛雲閣」だよ。

 

この飛雲閣は豊臣秀吉の聚楽第から移築されたものと伝わっているんだ。
飛雲閣は鹿苑寺の「金閣」、慈照寺の「銀閣」と共に、京都三名閣の1つに数えられているよ。
また滴翠園全体も国の名勝に指定されているんだ。

 

唐門 from wikipedia

 

<唐門(国宝)>

西本願寺の唐門は、全面が黒漆で塗られ随所に飾り金具が施されて、極彩色に彩られた彫刻によって装飾されているんだ。
彫刻は唐獅子、麒麟、鳳凰、孔雀、松に牡丹といった縁起物の他に、中国の故事もモチーフとなっているよ。

 

多彩な彫刻によって飾り立てられた唐門は、一日中眺めていても飽きないということから「日暮門」とも呼ばれているの。
西本願寺の唐門は、大徳寺本坊にある唐門、豊国神社の唐門とともに、桃山様式の「国宝三唐門」として知られているよ。

 

書院(対面所上段・国宝) from wikipedia

 

<書院(国宝)>

書院(白書院)は、豪壮華麗な書院造となっていて、白書院・対面所・控えの間に分けることができるよ。
白書院には一の間、二の間、三の間があり、将軍などの賓客への接待や門主対面の儀式に使用されていたそう。

 

対面所は203畳敷きの大広間で上段・下段があり、門主と門徒の対面などに使用されるんだ。
控えの間には雀の間、鴈の間、菊の間があるよ。

 

白書院三之間から一之間を望む(国宝) from wikipedia

 

ちなみに対面所は江戸時代前期の1618年に再建されたもので、白書院は対面所以前に建立されていたと言われているの。
書院は本瓦葺の入母屋造となっているよ。

 

<黒書院(国宝)>

黒書院は内向きの接客や寺務に使用された書院のこと。
一の間、二の間、茶室、鎖の間、広敷などがあり、江戸時代前期の1657年に建立されたもの。

 

こけら葺の寄棟造となっているんだ。
黒書院にある梟の灯籠が七不思議に数えられているよ。

 

北能舞台(国宝) from wikipedia

 

<北能舞台>

白書院の北側前庭に設けられているのが「北能舞台」だよ。
橋掛の構造意匠が簡素で、屋根が比較的小さいのが特徴。

 

後座は本舞台と同じように床板が縦に張られていて、橋掛の舞台となす角度が急になっているの。

 

江戸時代に入って様式が固定される前の自由な古式を伝えるものとなっているよ。
ちなみに北能舞台は、日本最古の能舞台とされていて、今から430年以上も前に建てられたそう。

 

<南能舞台>

南能舞台は対面所前にあり、現存する能舞台としては国内最大を誇るよ。

 

総門 from wikipedia

 

<総門(重要文化財)>

総門は現在地までに3度移築されているの。
虹梁に大柄な二組の蟇股を配していて、本瓦葺の切妻造、2011年に修復されたんだ。

南北に袖塀が付いた高麗門で、江戸時代末期(19世紀前期)に建立されたもの。

 

御影堂門 from wikipedia

 

 

阿弥陀堂門 from wikipedia

 

<御影堂門・阿弥陀堂門(重要文化財)>

御影堂門・阿弥陀堂門は四脚門。
御影堂門は1645年に建立されたもので、阿弥陀堂門は1802年建立。

 

御影堂門は本瓦葺の入母屋造で、阿弥陀堂門は檜皮葺の切妻造。
御影堂門は堀川通に面した門の中で一番大きく、高さは約14mもあるんだ。

 

鼓楼 from wikipedia

 

 

<太鼓楼(重要文化財)>

太鼓楼は西本願寺の東北角にある重層の楼閣。
内部に今も残る大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていたそう。
幕末時代、本願寺を一時的に屯所としていた新選組による刀傷が今もなお残っていると伝えられているよ。

 

<大銀杏(天然記念物)>

大銀杏は京都市の天然記念物に指定されていて、樹齢約400年。
まるで根っこを天に広げたような形をしていることから「逆さ銀杏」とも呼ぶそう。

本願寺に火災があった時には、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から「水吹き銀杏」とも呼ばれているんだ。

お坊さんレモン
お坊さんレモン
銀杏から水が吹き出たとな!!
お坊さんレモン
お坊さんレモン
国宝だらけの西本願寺!流石ですね〜♪

 

 

【西本願寺の住所とアクセス】

 

住所

京都府京都市下京区本願寺門前町

アクセス

JR・近鉄 京都駅より
京都駅 市バス『京都駅前』より9番,28番,75番(西賀茂車庫行など)に乗車、『西本願寺前』で下車。
京阪バス『京都駅八条口』より311番、312番に乗車、『西本願寺』で下車。

など

公式サイトより引用