お城の出丸とはどんなもの?出丸の読み方や役割などの疑問を解決!
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2020年5月6日
NHK大河ドラマの名作として人気を集めている『真田丸』は観たことあるかな?
観たことがないっていう人でもタイトルだけは知っている、本当に有名なドラマだよね。
でも、じゃあ「真田丸って何?」と聞かれると、答えに困っちゃうかもしれないね。
お城を語る上で絶対に外せない!って言っても過言じゃない真田丸。
実は人名でも船の名前でもなく、お城の一部を指しているんだよ!
ここでは
「真田丸とはなにか」
「真田丸の築城場所や構造はどうなっているのか」
「真田丸の戦いについて」
順を追って説明していくね♪
目次
【真田丸の築城主や場所は?】
真田丸はお城を構成する区画「出丸」の一つなんだ。
「さなだまる」って読むよ。
「出丸」については、別のコラムで詳しく紹介しているから一度読んでみてね♪
真田丸を築城したのは真田信繁(さなだのぶしげ)だよ。
真田幸村とも呼ばれているね。
安土桃山時代から江戸時代初期の武将で大名、真田昌幸の次男にあたるんだ。
1614年(慶長19)の大阪の陣(冬の陣)のときに築城されたんだ。
大阪の陣っていうのは、徳川家康の江戸幕府と豊臣家の合戦のことだよ。
大阪城の城主だった豊臣秀吉の子・豊臣秀頼に「味方になって」とお願いされた信繁が、徳川軍からお城を防御するためにつくったんだ。
真田丸が築かれた場所は、大阪府大阪市にある大阪城の南東側。
三の丸よりも外側にあったんだって。
【真田丸が城の南側に築かれたのは?】
なんで南東側に築城されたかというと、「大阪城の弱点だったから」という単純な理由だよ。
北と東西は川に囲まれていたんだけど、南側だけは地続きで自然の要塞に乏しかったんだ。
信繁や秀頼は考えたんだ。
「徳川軍(江戸幕府軍)はきっと南から攻撃してくるに違いない!」って。
出丸には敵の奇襲を防いでお城を守るっていう役割があるから、真田丸も大阪城を守る役割を果たさなきゃならなかったんだ。
【真田丸の構造は?形には2つの説がある!】
けっこう急いでつくったのもあって、石垣でガチガチに固めることはできなかったんだって。
真田丸は土塁・空堀・柵・塀で構成されていたんだ。
直径180mくらいの大きな出丸だったんだよ!
「丸」ってついているからには、丸い形を思い描くと思うんだ。
実際、多くの絵図では半円型の出丸として描かれていて、たとえば真田丸があったとされる天王寺区に建てられた「真田丸顕彰碑」でも半円の形をしているよ。
でも、専門家の中には直線に近い形だったんじゃないかっていう人もいるんだ。
第2次大戦の直後に米軍が撮影した航空写真では、長方形のような形をしていたそうで…。
今も2つの説どちらが正しいのかは明らかになっていないんだよね。
【真田丸の戦いと徳川軍が苦戦した理由】
真田丸が想像よりも簡素な作りだったことが分かったけど、じゃあなんで「攻略が難しかった」と言われているんだろう。
徳川軍は信繁の挑発に乗る形で真田丸を攻めることになったんだけど、応戦されると堀を越えることさえできなかったんだ。
真田丸からの攻撃でかなりの犠牲を出していた徳川軍は、家康からの命令で撤退しようにもできなかったっていわれているよ。
結局、大砲を使って遠方から攻撃して停戦するに至ったんだ。
徳川軍が真田丸の戦いに苦戦した理由は、出丸の役割にあるよ。
出丸にはほかの曲輪(二の丸、三の丸)との連携プレイで敵を挟み撃ちにする役割があるんだ。
真田丸をスルーしてお城を攻めようとしても、本丸やほかの曲輪から攻撃されたらあっさり負ける可能性がある。
お城と出丸の間にはかなりの距離があるからね。
だから、徳川軍は真田丸から攻略しようとしたんだけど、真田丸を攻撃している間に城門から出てきた豊臣軍に攻撃されて城に入ることすら叶わなかった。
どっちにしても徳川軍が攻め入る隙はなかったってことだね!
真田丸は大阪城の出丸としての役割を大いに果たしたってことなんだ。
最終的に、大阪冬の陣のあとに徳川軍に破壊されて埋められてしまったから、現在は市街地の一部になっていて跡形もなくなっているよ。