興福寺の五重塔は日本で2番目に高い塔?国宝指定の建造物がたくさんある興福寺とは?
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2021年7月8日
「奈良の四大寺」の1つでもある興福寺は世界遺産にも登録されていて、奈良にあるお寺の中でも人気があるよ。
興福寺と言えば国宝でもある五重塔が有名だよね。
今回は興福寺を訪れた際にぜひとも見ておきたいおすすめスポットを紹介しよう。
【ここはチェックしておきたい!興福寺の見どころスポットとは?】
興福寺にはたくさんの国宝建造物があるから、見どころがたくさんあるの。
<南大門跡>
南大門跡は江戸時代中期の享保2年(1717年)に焼失。
ここ数年で整備を終え、基壇の復元表示がされ、礎石と敷石がその大きさをしのばせるよ。
毎年5月の第3金・土には南大門跡で薪御能が行われるの。
<五重塔(国宝)>
奈良のシンボルタワーでもある五重塔は、興福寺の見どころの1つ。
高さは51m、京都の東寺にある五重塔に次いで2本で2番目に高い塔となるんだ。
この五重塔は藤原不比等の娘である光明皇后によって奈良時代前期の天平2年(730年)に建てられ、隣にある東金堂と同じように5回も火災で焼け落ちてしまうんだ。
しかし、その度にもとの形式で建て直されて復興を続けたよ。
現存する今の塔は、室町時代中期の応永33年(1426年)に建てられたもの。
五重塔は創建当初の位置に再建され、三手先斗栱と呼ばれる組物を用いるなど奈良時代の特徴を随所に残しつつ、さらに中世的で豪快な手法も大胆に取り入れているのが特徴なんだ。
創建当初の高さは約45mで、その当時では日本で最も高い塔だったそう。
各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経が、また初層には四天柱の各方向、東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が安置されていたと言われているよ。
現在は室町時代に制作された薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されているよ。
<三重塔(国宝)>
現存する興福寺の建物の中で北円堂とともに最も古いのが、三重塔(さんじゅうのとう)だよ。
三重塔は平安時代後期の康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮の皇嘉門院聖子が建て、平氏による焼討ちで治承4年(1180年)に焼け落ちてしまうんだ。
しかし、鎌倉前期に再建され、現在まで残っているよ。
木割が細く軽やかで優美な線を醸し出していて、平安時代の美しさを今に伝えてくれる貴重な建物の1つなんだ。
初層内部の四天柱をX状に結ぶ板には東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に弥勒如来が各1,000体描かれているよ。
また、四天柱や長押、外陣の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣、仏や菩薩などが集う浄土の風景、貴族風の人物などを丁寧に描かれているの。
<東金堂(国宝)>
中金堂の東側、五重塔の隣にある東金堂(とうこんどう)は西向きのお堂で、奈良時代前期の神亀3年(726年)に聖武天皇が、叔母の元正太上天皇の病気回復を願って建てられたものなの。
創建当初は床や須弥壇などに緑色のタイルが敷きつめられ、薬師如来の東方瑠璃光浄土の世界が表されていたと言われているの。
その後、五重塔と同じく5度の火災・再建を繰り返し、現在の建物は、室町時代中期の応永22年(1415年)に5度目に再建されたものになるんだ。
前面を吹き放しとした寄棟造で、組物である三手先斗栱が多用されており、奈良時代の雰囲気を色濃く伝えるよ。
東金堂は天平時代の和様の姿をいまに伝えている国宝指定の重要な建造物なんだ。
また、堂内は室町時代に造立されたおおらかな姿の銅造である本尊薬師如来坐像を中心に、日光・月光菩薩立像や鋭いまなざしの少年のような木造文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、十二神将立像、四天王立像などを安置。
<中金堂>
中金堂(ちゅうこんどう)は興福寺の伽藍の中心になる最も重要な建物になるの。
藤原氏の栄光の基礎を築いた藤原不比等が創建したと伝えられており、創建当初の中金堂の規模は当時の奈良朝寺院の中でも第1級だったと言われているの。
その当時は丈六釈迦如来像を中心に、薬王・薬上菩薩像と十一面観音菩薩像を脇侍に従え、四天王像や弥勒浄土変の群像も安置されていたそう。
中金堂は創建より6回の焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717年)に焼失後は財政的な問題により再建がなかなか進まなかったという歴史があるんだ。
焼失してから約100年経過した文政2年(1819年)に、町屋の寄進により規模を縮小した「仮堂」を再建したんだ。
仮堂は長期的な使用を想定していなかったため、材木には不向きなマツが使われていたそう。
平成12年(2000年)には創建当時の様式で復元するために仮堂を解体して、発掘調査を経て、平成30年(2018年)に再建落慶を迎え復元されたんだ。
<国宝館>
国宝館は僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に創建されたもの。
奈良時代創建当初の食堂の外観を復元しており、地下には旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているんだ。
奈良時代から伝わる興福寺の宝物や、教科書などに掲載されてる旧山田寺の仏頭、思春期の苦悩を表情に浮かべる阿修羅像、力がカラダいっぱいにみなぎる金剛力士像など、国宝の仏像や子文書、工芸品などを収蔵・展示展示しているの。
本物の仏像の姿や表情、動きなどが直接見て学べる場所として観光客に人気があるよ。
2018年にリニューアルオープンしたばかりだから施設も新しくて見やすいので、仏像ファンは必見!
<北円堂(国宝)>
北円堂(ほくえんどう)は鎌倉時代初期の承元4年(1210年)に創建されたもので、興福寺では最も古いお堂になるの。
日本に現存する八角円堂の中でも、最も美しいと賞賛される北円堂は、興福寺の創建者・藤原不比等の1周忌に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせたものなんだ。
興福寺伽藍の中では西隅に位置しているものの、北円堂が建てられたのは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営を推進した藤原不比等の霊を慰める最良の場所だったの。
治承4年(1180年)の被災後、承元4年(1210)頃に伝統的な「和様」によって再建されているんだよ。
北円堂は華麗で力強く、組物に三手先斗栱が使われるなど、創建当初の姿をよく残しているの。
内陣の天井には中央の大蓮華より光を放つ天蓋が輝いていて、組物間の小壁ある彩色された笈形が特徴的だよ。
<南円堂(重要文化財)>
南円堂(なんえんどう)は平安時代前期の弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂追善のために建立したお堂なの。
稜線が美しい八角形のお堂は国内でも最大級の規模で、「西国三十三所」の第九番札所として人々の参拝が多いんだ。
当時の興福寺は藤原氏の氏寺だったけれど、藤原氏の中でも摂関家となる北家の力が強く、北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めていたの。
本尊である不空羂索観音菩薩が身にまとっている鹿皮は、神に仕える鹿への信仰、つまり氏神である春日社との関係によって、藤原氏の強い信仰を集めたよ。
現在の建物は江戸時代の寛政元年(1789年)頃に創建以来4度目に再建された和様建築だよ。
南円堂の再建には古代・中世の北円堂などの円堂を参考にしたと考えられていて、正面には間口1間・奥行2間の「拝所」があって、唐破風が付いているなど、江戸時代の細部様式をよく表しているんだ。
<本坊>
本坊は興福寺の寺務を執り行う場所で、平安時代頃から僧侶が生活し、学問に励んでいたと言われているの。
表門は天正年間(1573年~1592年)に建立された正面4.5m、側面2.6m、本瓦葺の四脚門。
明治40年(1907年)に菩提院の北側築地の西方に構えられていた門を移築したものなんだ。
<大湯屋>
大湯屋は寺院の風呂場として使われていた建物で、奈良時代から設けられていたと推測されているよ。
大湯屋は数回の火災・再建を繰り返して、現存する建物は室町時代に再建されたものと考えられているんだ。
西面の屋根が入母屋である一方、東面の屋根は切妻であることから、大湯屋東側には何らかの建物があり、大湯屋で沸かした湯を東側の建物に送って蒸し風呂にしていたか、入浴・沐浴していたものと推測。
大湯屋内部は床を敷かず、地面に直接「鉄湯釜」を南北に2口据えてあるよ。
ちなみに鉄湯釜は奈良県指定文化財に指定されているんだ。
<菩提院大御堂>
菩提院とは現存する興福寺の子院の1つ。
その歴史は古く、法相宗を中国から伝えた玄昉や、平安時代の学僧・蔵俊が住んでいたとされるよ。
この菩提院は、稚児観音や十三鐘、三作石子詰の伝承でよく知られているんだ。
また、菩提院付近一帯は仏に備える四季の花が植えられていたと言われているよ。
中心に大御堂があるんだけど、大きな御堂が建てられたのは鎌倉時代に入ってからであったと発掘調査の結果明らかになったんだ。
現在の建物は天正8年(1580年)の再建で、正面17.0m、奥行14.2mの本瓦葺で正面に向拝が付くよ。
大御堂内には本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)や稚児観音菩薩立像などが安置されているんだ。
<興福寺五十二段>
猿沢池の東側から興福寺五重塔へ上がる幅広い石段のことを「五十二段」というの。
その名の通りこの石段は52段あって、菩薩修行の段階を表した「段位五十二位」になぞられたものなの。
また、段の上は仏界を意味すると言われているよ。
石段を上がる際には52段あるか数えながら上がってみよう。
<采女神社(うねめじんじゃ)>
興福寺のすぐそばにある采女神社も訪れておきたいスポットの1つ。
猿沢池の北西にある采女神社は、春日大社の末社で縁結びの御利益がある社なんだ。
「大和物語」によると奈良時代に天皇の寵愛が薄れたことを嘆き、猿沢池に身を投じた采女(身の回りの世話をする女官)の霊を慰めるために創建された神社なの。
祠が鳥居と反対側を向いているのは、自分が入水した池を見るのは忍びいと、采女が一夜のうちに背を向けてしまったという伝説のためなんだ。
毎年、中秋の名月には、采女の霊を鎮め、人々の幸せを祈る例祭「采女祭」が行われているよ。
この采女祭が行われる日のみ授与所にて糸占い(300円)を授かることができるの。
糸占いでは、采女神社の前で中秋の名月の月明りに照らし、赤い糸を縫い針に通すと願いが叶うと伝えられているんだ。
その他、通年を通して恋みくじや采女えんむすび守などは販売しているよ。
公式サイト → 興福寺