
世界遺産にも認定されている奈良の四大寺・興福寺の見どころスポットを徹底解説
2021年7月7日
東大寺に行ったら絶対に見ておきたいおすすめスポットを徹底解説
2021年7月11日奈良と言えば「大仏」とイメージする人は多いはず。
日本一大きな大仏を拝んでおきたいよね。
今回は奈良の大仏で有名な東大寺についてまとめてみよう。

【東大寺の歴史】
東大寺は奈良県奈良市にある華厳宗の大本山で、奈良時代の代表的な寺院。
大仏殿は世界最大級の木造建築物になるんだ。
また総国分寺、金光明四天王護国之寺、大華厳寺などとも称され、南都七大寺の1つになるの。

次に東大寺の時代ごとの歴史をまとめてみよう。
<東大寺創建から平安時代>
東大寺が創建されたきっかけは聖武天皇時代に社会的な不安が多かったからなんだ。
聖武天皇が即位してから、地震や日食が続き、皇太子が幼くして亡くなるの。
さらに天平9年(737年)の天然痘大流行、天平12年(740年)藤原広嗣の乱など相次いで災難が起こったんだ。
聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺・国分尼寺の建立を発願。
数々の災難を仏教の力で消滅させて国家を守る「鎮護国家」という考えから、国分寺は四天王を護持する寺、国分尼寺は法華経を絶えず読経する寺としたんだ。
その後、天皇や貴族に華厳経を説いていた良弁が諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立して、大仏を造立することを進言。
これを受け入れた聖武天皇は、天平15年(743年)に、大仏造立の詔を発願。
大仏は当初、紫香楽宮(現在の滋賀県)で造られ始めたんだけど都が平城京に戻ったことによって、新たに東大寺が造営されてその本尊として大仏が作られることとなったの。
天平勝宝4年(752年)に完成し、大仏開眼供養が盛大に行われたんだ。
翌年に来日した鑑真は東大寺に戒壇院を設けて、僧侶の国家的な育成にあたったよ。
奈良時代から平安時代にかけて、奈良の大寺院は南都六宗と呼ばれる教派を形成。
東大寺は華厳宗の中心となり、「六宗兼学」を目指す総合的な仏教学の中心となっていくの。
都が長岡へ移った後も、歴代天皇の手厚い保護を受けた東大寺は、興福寺とともに栄えていくんだ。
しかし平安時代の末、保元・平治の乱の後、平氏は大和国を勢力下におくんだ。
平氏政権と東大寺をはじめとする南都の寺院勢力が対立した結果、治承4年(1181年)に平清盛の命を受けた平重衡が、南都を焼き払われてしまうの。
この火災によって東大寺は、二月堂・法華堂・転害門・正倉院以外の主要な伽藍を失ってしまったよ。
<鎌倉時代>
平重衝による南焼払いの後、東大寺は平氏政権に逆らった罰として、荘園・所領を没収されてしまうんだ。
そのため、焼失した伽藍の再建は認められなかったの。
しかし平清盛が亡くなり、源頼朝の動きが不穏になったため、処罰はすぐに撤回されることになるよ。
その後、後白河上皇は東大寺の被害状況を知るために使者を送ったの。
この時に当代再建を説いたのが「重源」なんだ。
被害状況の報告を聞いた後白河上皇は重源を大勧進に任命し、東大寺の再建に取りかかるの。
重源は精力的に全国をまわり、源頼朝の協力のもとで、大仏や諸堂の再建にあたったんだ。
このときに再建された大仏殿や南大門は、建築方法が独特なもので「大仏様」と呼ばれているよ。
文治元年(1185年)に大仏開眼供養が行われ、5年後の建久元年(1190年)に大仏殿が完成。
建仁3年(1203年)に再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝が列席のもと東大寺総供養が行われたんだ。
再建事業と平行して、東大寺では多くの新しい仏像が造られ、奈良の仏師代表である運慶や快慶らが活躍。
新たな時代を代表する仏教彫刻である東大寺南大門金剛力士像は東大寺再建をきっかけに誕生したんだ。

<江戸時代>
永禄10(1567)年に松永久秀の兵火にかかり再度被災した後、江戸時代に公慶上人らの勧進で再興。
現在の寺観は江戸中期までに整えられたよ。
境内には「奈良の大仏さま」として名高い盧舎那仏坐像が安置されている大仏殿、創建当時の遺構を残す転害門、法華堂をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である南大門、鐘楼、江戸時代再建の二月堂といった数多くの国宝建造物がたち並ぶんだ。
1998年12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されたよ。
戦国時代の永禄10年(1567年)、東大寺は松永久秀の兵火にかかり再度被災してしまうんだ。
松永久秀の軍勢は、大仏殿に陣を構えていた三好勢に夜討ちを仕掛けたの。
その結果、大仏殿をはじめとする多くの建造物が焼失してしまい、大仏は原型を留めないほどに溶け崩れてしまったんだ。

翌年には、山辺郡山田城城主・山田道安が中心となって、大仏・大仏殿の修理が試みられるの。
織田信長や徳川家康なども勧進許可を出したものの、大仏は江戸時代になっても木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態で、雨ざらしのままだったそう。
貞享元年(1684年)に三論宗の僧である公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタート。
民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができたんだ。
翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられたよ。
大仏修理計画が具体化したことで、奈良の町では「大仏講」と呼ばれる組織が編成され、大仏復興への気運が盛り上がっていくの。
貞享3年(1686年)には大仏の修理が始まり、わずか5年後の元禄4年(1691年)には大仏の修理は完了。
その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれたんだ。
奈良は空前の賑わいをみせたといわれているよ。
大仏殿の再建にも公慶による勧進が続けられたものの、大仏再建よりさらに大きな費用がかかったの。
元禄6年(1693年)には、公慶が将軍・徳川綱吉とその母・桂昌院に謁見したことをきっかけに、東大寺復興は江戸幕府主導の国家的大事業となっていくんだ。
それでも修復資金は足りず、大仏殿の規模は鎌倉時代よりも大幅に縮小されて、現在の規模になったんだよ。
再建工事は14年の年月をかけ、大仏修理、大仏殿再建、他の焼失した建造物に関しても再建が行われたんだ。
東大寺の復興事業が完了したのは、公慶が復興を志してから約70年後のことだったの。

<近代>
江戸時代後期になると、大仏殿は老朽化が進み、木材の腐食や柱の傾き、屋根の変形が進んだんだ。
明治時代には倒れないのが不思議なほどだったそう。
慶応4年(1868年)に、明治政府は神祇官を再興し、その後、神仏分離令を出し、仏教と神道を区別して神道を重んずる方針を示したの。
これをきっかけに全国的に「廃仏毀釈」の動きが広まり、仏像などは海外に美術品として売り飛ばされたり、薪などにされたりして、奈良の寺院も大きな危機に直面したんだ。
この時、東大寺勧進所となった龍松院も廃院となってしまうよ。

さらに文明開化を目指す急激な近代化で、伝統美術は古めかしいものとして排除されるようになるの。
このような風潮の中で、奈良の寺院・仏像の荒廃ぶりを見た岡倉天心は「日本人の精神が失われる」と痛感し、文化財の保護を訴えたんだ。

明治30年(1897年)には、文化財保護のための法律として「古社寺保存法」が制定。
貴重な仏像の保存や修復を国が行うことになっていくよ。
新たな法律のもとで、岡倉天心らは破損が激しかった東大寺法華堂の不空羅索観音像を修復。
さらに明治36年(1904年)~大正2年(1913年)まで、大仏殿の大規模な修理が行われたんだ。
昭和49年(1974年)~昭和55年(1980年)まで行われた東大寺の「昭和の大修理」では、大仏殿の屋根瓦が軽量なものに交換されるなどの修理が行われたよ。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録。
奈良県は日本で最も国宝の多い県となり、東大寺は修学旅行の代表的スポットとして全国各地からたくさんの観光客が訪れるようになったんだ。

【大仏の豆知識を徹底解説!】
大仏の建立に関しては様々なエピソードが残っているよ。
ここでは大仏にまつわる豆知識をまとめてみよう。
<大仏の正式名称は大仏ではない?>
実は東大寺の大仏というのは正式名称ではないんだ。
正式な名称名称は「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」と言うの。
華厳経の教理では釈迦如来と同じであり、一切万物を救済する仏とされているよ。
動物も植物もこの世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える仏であると考えられていたんだ。
<東大寺の大仏づくりは奈良時代の日本人口の約半分が働いたって本当?>
世界最大の大仏様と大仏伝を作るために働いた延べ人数は、材木関係の技術者が約5.1万人とその下で働いた人約167万人、金属関係技術者約37万人とその下で働いた人約51万人の、合わせて約260万人にも及ぶんだ。
この人数は奈良時代の日本の人口の約半分と言われているんだ。
どれだけ大変な事業であったかがよく分かるよね。

ではどうやってこれだけの人を集めて作業させたんだろう?
そこには当時庶民に仏教を教えていた「行基」が深く関わっているんだ。
大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できなかったため、行基は全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手集めに尽力。
しかし行基は大仏の完成を見ることなく、亡くなってしまうんだよ。

<大仏は何度も被災しその度に大改修された>
世界最大の銅造仏である大仏は、奈良時代中期の天平17年(745年)から工事がはじまり、天平勝宝4年(752年)に開眼供養されたよ。
その後は何度も戦で焼かれ、その度に大改修が行なわれたんだ。
現在の大仏は、胴体は鎌倉時代、頭部は江戸時代に修理ものなの。
また、台座の蓮弁部と左大腿部の一部には、創建された天平当時のものが残っているんだ。

<大仏の大きさは?>
大仏の大きさをまとめてみよう。
・全長(蓮台を入れた高さ):18m
・大仏の高さ:15m
・蓮台の高さ:3m
・顔の長さ:5.3m
・目の長さ:1m
・口の長さ:1.3m
・手の長さ:2.8m
・中指の長さ:1.1m
すごい迫力だね。

<大仏を夜間拝める時がある?>
8月13~15日は大仏を夜間拝むことができるんだ。
8月13・14日は通常の入堂時間(7時30分~17時30分)の閉門後、19時~21時まで開門されるの(入場無料)
大仏殿正面の観相窓を開き、外からでも大仏を拝むことができるんだよ。
夕方より建物のライトアップもあるからとっても綺麗なんだ。
また8月15日は「万燈供養会」を行っており、17時30分に一旦閉門し、19時~22時まで中門を開放しているんだ(入堂有料)
19時~22時までは大仏殿正面の観相窓が開かれ、外から大仏を拝めるよ。



