信長に一番槍を突き、森蘭丸を討ち取った安田国継とはどんな人物だった?
2021年2月18日信長の小姓・森蘭丸は聡明で真面目な性格だった?森蘭丸のエピソードを大公開!
2021年2月18日
目次
【信長のお気に入りの重臣であった森蘭丸とは?】
本能寺の変で安田国継が討ち取ったと言われる森蘭丸は、信長に寵愛された小姓なんだ。
織田信長の傍で仕えていた森蘭丸はいったいどんな人物だったんだろう?
ここでは本能寺の変で短い生涯を終えた小姓・森蘭丸についてまとめてみよう。
【森蘭丸の生い立ち】
森蘭丸は永禄8年(1565年)に信長の家臣で金山城主であった森可成の三男として誕生。
蘭丸の父・森可成は武勇に優れており、信長から厚い信頼を得ていたんだ。
さらにその跡を継いだ蘭丸の兄・長可もまた重用されていたよ。
蘭丸は天正5年(1577年)5月に弟らとともに信長の小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として過ごすようになるんだ。
信長に寵愛された森蘭丸は、17歳のころには近江に500石の知行を与えられているよ。
【小姓とは?】
小姓とは秘書的な立場で、武将の話し相手や身の回りの世話、来客の取り次ぎなど様々な雑務をこなす役職のこと。
また小姓は、身辺警護の親衛隊役も担っていて、いざという時は主君を守らなければならなかったんだ。
そのため、小姓は幅広い知識と武芸を身に着けておく必要があり、森蘭丸も聡明な人物であったと言われているよ。
戦国時代の武将には小姓という役職の若者が従事するのが一般的だったの。
歴史的にみると、秀吉の小姓だった石田三成など、小姓の役職を経て名を挙げた人物もいるんだ。
また森蘭丸と信長は衆道関係でもあったと言われているの。
この当時、男色が当たり前という風潮があり、小姓と修道関係を持つことも普通のことだったんだ。
戦場には女を連れていけないこと、小姓であれば有事の際にも主君を守ることができるなどの理由から、衆道関係が広がったと言われているよ。
森蘭丸は、信長の着替えの手伝いや、風呂で体を洗うなどの身の回りのお世話に他に、寝所を共にして夜の相手をすることもあったそう。
信長からの寵愛を受けていた蘭丸は、信長の愛刀ももらい受けているんだ。
ある日信長は、「愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にその刀をやろう」と言い出すの。
答えを知っていた蘭丸は黙ったまま。
その態度に感心した信長は、蘭丸にその刀を与えたと言われているよ。
自分の刀を与えるほど、信長は蘭丸のことを信頼していたんだね。
【使者、側近として活躍した蘭丸】
森蘭丸は使者、側近として活躍したよ。
その活躍ぶりは「信長公記」にも記されているんだ。
ここでは森蘭丸の近衆としての仕事についてまとめてみよう。
<信長の使者として働く>
蘭丸は信長の使者として忙しく働いていたと言われているんだ。
信長の息子たち(信忠、信雄、信孝)に贈品である脇差を届けたり、敵の首を持参した武将や信長が好きだった幸若舞の太夫に褒美を与えたりしたのも蘭丸の仕事だったの。
そのほかにも、信長に降った者に対して地行の安堵を伝える、各地の武将に金を届けるなど信長の手足となってこまごまとして使者を務めていたよ。
<取り次ぎ役として働く>
蘭丸は奏者(信長への取り次ぎ役)としても働いていたの。
「兼見卿記」によると天正8年(1580)年8月13日に吉田兼和が菓子をもって信長を訪ねた際、蘭丸に披露を頼んでいるよ。
また、兼和は甲州軍にあった信長に対して、勝軍治要のお祓いのため蘭丸に書状を書いて、披露を頼んでいるんだ。
信長に用のある人たちは、まず蘭丸を通す必要があったと言われているよ。
<信長の朱印状を与える>
蘭丸は信長が発注した朱印状などに文書を添える仕事もしていたの。
特に河内の金剛寺にあてたものが多かったそう。
金剛時では信長にものを贈る際には、蘭丸を通すのが通例となっていたんだよ。
【本能寺の変での蘭丸の奮闘】
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こると、森蘭丸は光秀軍1万の兵に囲まれながら奮闘。
しかし、明智配下にあった安田国継により討たれてしまい、わずか18歳の生涯を終えることになるよ。
この時、蘭丸だけではなく、蘭丸の2人の弟も討ち死にしてしまうんだ。